「山上の説教」は徹底的に貧しい人対象の教えではないか

このブログ記事は、ちょっと聖書マニアックだと思います。それでもよろしいというかたはどうぞお読みください。ほかのブログ記事をお読みくださるのでもありがたいです。

イエス・キリストの「山上の説教」は、徹底的に貧しい人を対象としているのではないか、という私の仮説(?)を書きますね。なにをいまさらと思われるかもしれませんが、意外とこれを指摘している人は少ないと思います。

まず「われらの日用の糧をきょうもお与えくださいと祈れ」という教えについて。これは典型的に、極めて貧しい人を対象とした教えではないでしょうか。「きょうの食べ物をください。あしたのぶんまで考えられない」という、その日暮らしの極貧の人を念頭に置いていると思われるのです。

そして、その2ページくらいあとに「なにを食べようか、なにを着ようか、あすのことまで思い悩むな」と書いてあります。つまり、食べるものも着るものもないのです。

「魚を欲しがる子供にへびをやるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、子供にはよいものを与えることを知っている。まして天の父は」とイエスは言います。これも、極めて貧しい親子が想定されているのではないでしょうか。つまり、子供が家でおなかをすかせており、卵が食べたいと言っているのです。そこで、親が必死で食べ物を探しに行くところです。

この「悪い者でありながら」とイエスが言うのは、貧しい人は卑怯にならざるを得ないからです。私だって失業保険をもらうときは、卑怯者にならざるを得なかった。それをイエスは「悪い者」と表現した。

「返してもらうことをあてにしないで貸せ」という教えも書いてあります。これは、借りるほうも返すあてがないのです。お互いに貧しいから。お互いに、返すあてもなく借りているのです。

「人を裁くな」という教えも貧しい人向けです。なぜなら、「論破ごっこ」を成立させるのは経済的な余裕だからです。イエスは貧しい人に向けて「人を裁くな。裁かれないためだ。同じはかりではかられるぞ」と教えたわけです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのも典型的に貧しい人向けの教えですね。

ところで、パウロの言葉で「神様は乗り越えられない試練を与えません」みたいな聖書の言葉があり、ときどき有名なスポーツ選手が引用したりして、世間の人がつまずく、といった現象がみられます。さて、イエスはなんと言っているか。

イエスは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえと祈れ」と教えました。周囲は悪ばっかりですからね。そして、試練にあわせないでくださいと。「試練を乗り越えられますように」ではなく「試練にあわせないでください」なのです。これはかなりせっぱつまった人に向けた祈りの教えではないでしょうか。

それで「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエスは言うわけでしょう。「欲しいものはくれます。嫌なものはあっちいってください」という教えなのです。貧しい人にあつかましさで生きることを教えているのが「山上の説教」ではないでしょうか。

それで、本当に貧しい人は心まで貧しくなってしまうのです。そこで「心の貧しい人は幸いである」と書いてあるというわけです。

いかがでしょうか?なかなか説得力のある論だとは思いませんか?これは自分でも気に入っている論です。

以上です!

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