「意味もなく2×2を計算することはない」という標語の書き換わるとき(「なんのために数学を勉強するのか」VS「数学はおもしろい」)

ある大人の生徒さんと、1年半くらい前から、小学校の3年生の教科書に沿って算数を学んでいます。(その生徒さんにはエピソード使用許可を得ています。)私もたいへん勉強になっており、とてもありがたい生徒さんです。その生徒さんの名言で「意味もなく2×2を計算することはない」というものがあります。
2×2というのは、いつする計算でしょうか。2人の人間の目の数でしょうか。あるいは、2台の自転車のタイヤの数でしょうか。貧弱な私の発想ではそれくらいしか思いつきません。しかし、確かに意味もなく計算することはないような気がします。と申しますか、私は中高の教員の経験から、「意味もなく2×2の計算をすることの空しさ」をたくさん味わって参りましたので、この言葉は重い意味を持ちました。
あるとき、以下のような円を組み合わせた形の面積を求めなさい、という小学校の算数の問題に出会いました。しかし、実生活において、このような、「おしりたんていの顔」のような形の面積を求めなければならないことはほとんどないと言ってよいでしょう。

学校で習う「日常の役に立たないこと」は数学以外にもいろいろあります。「彫刻刀の使い方」、体育で習う「反復横跳び」、などなど。いっぽうで家庭科で習う「クーリング・オフ」の仕方などは、数学などよりよほど「役に立つ」知識でしょう。
先ほどの大人の生徒さんの話に戻ります。ご一緒に「倍数、約数」について学びました。かなり抽象的です。小学5年生ともなりますと、だいぶ算数が抽象化して、日常と乖離して来ます。これが中学の数学ともなりますと、ますます日常と乖離して抽象化します。この生徒さんとは、「意味もなく2×2を計算することはない」という標語の書き換えをすることになりました。これからは、意味もなく2×2をすることはあり得ます。ただし、そこには、おもしろいものをおもしろいと言える鋭い感性が必要になることを認めました。
別の生徒さんですが、高校で習う正弦定理をご一緒に学んだときのことです。この定理の価値について私が触れたとき、その生徒さんは鋭く、価値という言葉には主観が入りますね?とおたずねになりました。その通りです。数学上のどういう概念に価値があるか、というのは、主観なのです。
最近、私がネットで見たある数学の「問題」について触れます。「サイン1ラジアン」が無理数であることを証明する問いでした。これは、sin60°のようなすっきりした値でも無理数になりますし(${\frac{\sqrt{3}}{2}}$)、まして1ラジアンなどという中途半端な数ならいかにも無理数になりそうです。端的に言うと、私はこの問いに意味は見いだせなかったのです。価値のある問いだとは思えませんでした。
世の中の数学教育で聞く2種類の話があります。「なんのために数学を勉強するのか」という話と「数学はおもしろい」という話です。前者は「意味もなく2×2をやることはない」方向性かもしれませんし、後者は「意味もなく2×2をやることはある」方向性かもしれません。しかし、この両者にもしかしたら抜け落ちているかもしれないものが、「ほんとうにおもしろいものをおもしろいと思う感性」かもしれないとも思うのです。
関孝和という和算の数学者がいます。私は関孝和について詳しくなく、ここで関孝和について語る資格のない者ですが、鎖国している江戸時代に独自で微分積分学や線形代数学にたどりついていたらしい学者です。過去に1回だけ、そのあとなぜ日本の数学が発展しなかったか、という議論を読んだことがあります。関以外の和算の学者は、「難しい問題の出し合い」を繰り広げていて、学問として数学が発展することがなかったのだそうです。学問とは「価値」という「主観」であると改めて思わされます。
再び最初の大人の生徒さんの話に戻ります。小学5年生となって、かなり算数が抽象化して来ました。「意味もなく2×2を計算することはない」という標語を書き換え「意味もなく2×2をすることはある。ただし、おもしろいことをおもしろいと思える感性が必要」としました。いまもご一緒に充実した学びをしています。
倍数、約数の学びを終えたいまは、最大公約数、最小公倍数などの概念を用いた、分数の約分、通分などを学んでいます。分母の違う分数の足し算や引き算ができるようになりました。最初にこれを考えた古代の数学者のとほうもない賢さに圧倒される思いでご一緒に約分や通分を学んでいます。極めてありがたい生徒さんです。これからもご一緒に、ほんとうに価値のあるものをおもしろいと思える感性を羅針盤としながら、数学の旅を続けて行きたいと願っています。
