理解力=理解する力、尊重力=理解しようとする力

北九州の東八幡キリスト教会の牧師で、NPO法人抱撲(ほうぼく)の理事長の奥田知志さんと知り合ったのは、2020年(6年前)、コロナが流行った直後ごろでした。以下、奥田さんのことを、呼び慣れている言い方で「奥田先生」と書きます。私は仕事を長く休み、それで、名古屋の時代に知り合ったある人が、そのころ抱撲で働いており、その年の9月に、北九州のその人の部屋で4週間の滞在をしたときでした。翌2021年の夏にも滞在し、そのころ校正をさせていただいた奥田先生の著書『ユダよ、帰れ』では、私の名前が後書きに記されています(*1)。奥田先生の有名な「問題解決型支援」と「伴走型支援」の話は、よく使わせていただきました。その当時の私の理解を書きます。
マンガ「ドラえもん」でたとえます。のび太は、学校で先生に叱られ、ガキ大将にいじめられて、家に帰ってドラえもんに不満を言います。ドラえもんはポケットから道具を出します。問題を解決しようとしているので、これは「問題解決型」であると言えます。ところがよく観察していると、のび太にとって、ドラえもんの真のありがたみは、「ドラえもんはぐちを聞いてくれる」「家に帰ればドラえもんがいる」ということだと気づいたのです。これを「伴走型」と言っている。このように、理解していたわけです。この理解でおおむね正しいと思いますが、このたび、少し考えを改めました。以下のような意味があると気づいたのです。
昨年の6月、私は重い病気をしました。そのころ、かかった近所の内科の先生が、私のことをとても大変な患者であると認識してくださり、いろいろ教えてくださいました。患者は原因を究明しようとするが、医者は必ずしもそうは見ておらず、その患者がいまにも死にそうだとかいうのでない限りは、検査をしてみて、なんともないですねと言って、原因をひとつひとつ除外していくのである。とりあえず、その精神科の薬という点が除外されなければ先に進まないでしょうねと。その内科からの帰り道で、私は「親切」ということの意味を知りました。その先生は「親切」だったのです。私は「親切ぶる」のと「親切」の違いを知りました。私は、長いこと「親切ぶる」のを「親切」というのだと勘違いしてきたのです。同じころ、「立派な人」というものも認識を改めました。磯野波平さんは立派な人です。ジャイアンのお母さんも非常に立派な人であり、スネ夫およびその母が、性格の少し曲がった人物として描かれるのとは違って、ジャイアン自身も、小学生なので未熟なだけで、性根は立派な人であることに気づいたのです。(常にマンガのたとえばかりで恐縮です。)「立派ぶる」のと「立派」はまったく違うのでした。私はずっと「立派ぶる」ことを「立派」というのだと勘違いしてきたのでした。
これに比べますと、最近よく聞く「傾聴」という言葉は、どうも「傾聴ぶる」のと(本当の)「傾聴」をごちゃまぜにして、両方とも「傾聴」と言っているような気がします。ようするに、人の話をよく聞くのを「傾聴」というのだと思いますが、人の話を熱心に聞いているふりをすることも含めて「傾聴」と言っている気がするのです。
私はそのころ、ある精神科の先生にお世話になっていました。もともと福祉の方から聞いたことで、非常によく患者の言うことを聞いてくださる先生だということでした。確かに、非常によく患者の話を最後まで聞かれる先生でした。「患者の話をよく聞く先生」というのは、それだけで大きな特質です。その先生のクリニックは、いつも繁盛していました。その先生は、よく患者の話を聞いてくれるからでしょう。私も大分助けていただきましたが、最終的には、そのクリニックを去ることになりました。私の病気はもっと特殊なもので、そもそもクリニックで診ていただく類のものではないと分かったからですが、その先生を見ていますと、どうも、私の話をただ聞いているだけのような気がしたのです。
安冨歩『生きるための経済学』、エーリッヒ・フロム『愛するということ』は、そのころよく読んだ書物です。尊重とは、いましゃべっている相手がどういう人だか、話している間ずっと考え続けることであると私は読みました。人間が人間を理解し尽くすことは決してないと思います。しかし、だからこそ、相手がどういう人だか、今、何を考えているところだか、ずっと考え続ける必要があるのです。これが「尊重」と言われるもので、これは、人間関係において、とても大事なものなのだと私は理解しました。人生の初心者として日々歩む私は、よちよち歩きながら、日々、人間を尊重する練習をしています。本日も、かつてお世話になった方に、論文の図をかくソフト等の相談にメールで乗っていただきました。すぐに返信があり、いろいろな図をかく手段が紹介してありました。私は、感謝の返信をするとき、その方の健康を祈る言葉を入れることができました。当たり前のように見えますが、人を尊重することをようやく49歳の去年から始めた私には、これは大進歩なのです。
「理解力」と「尊重力」ということも、そのころよく考えました。私の説明力によって皆さん理解なさるというより、皆さんが私のことを尊重してくださる、いわば「尊重力」によって、私の話は理解していただけていたのだとようやく分かったのです。それで、最初、尊重力とはすなわち理解力のことだと思いましたが、どうも、この二つは重なっているものの、必ずしも一致しないことにだんだん気づかされて行きました。たとえば、数学を理解する能力は、理解力であり、いかにその論文なり教科書の著者を「尊重」したところで、その論文が理解できるわけではないです。
それで、尊重力とは「理解しようとする力」のことだと気づいたのです。理解力が「理解する力」のことだとすると、尊重力とは「理解しようとする力」のことです。人間が人間を理解し尽くすことはないので、相手のことを常に理解しようとし続けることが重要であり、それを尊重というなら、そうなります。
ときどき、牧師をしている友人の話を聞くことがあります。いろいろ皆さんの相談に乗るみたいですが、どうも皆さん、ぐちを吐きに牧師のもとへ来ておられる傾向にあるみたいで、聞くほうとしては、とにかくしゃべってもらって、すっきりしてもらうことが肝心だという認識を持っている牧師さんを複数知っています。これはその通りだと思うのですが、人の話を聞き流しているだけの状態と紙一重です。私が精神科で感じたように、それは、問題解決(患者の言うことを聞いて病状を判断し、治療を行うこと)という本来のものから離れて、単なるぐち聞きになってしまうのかもしれません。
人の話をちゃんと聞くことを「寄り添う」というならば、聞き流すだけの行為は「寄り添い詐欺」となると思います。なかなか、一日に何十人もの人の話を聞かねばならない人にとっては、それも大変なのだと思いますが、ただ聞き流して、あいづちを打ち、大変ですねえと言い、ほめて欲しいようだったらほめてあげるという、それは、聞いているふりだけなのかもしれません。「傾聴」と「傾聴ぶる」のが、同じ「傾聴」という言葉でくくられているような気がするわけです。
奥田先生の言う、「問題解決型」と「伴走型」。問題解決型支援とは、「問題を解決する支援」であり、伴走型支援とは、「問題を解決しようとする支援」のことを指すと気づいたのです。その目で、奥田先生の昨年の本『わたしがいる あなたがいる なんとかなる』を読みますと、奥田先生は、本当に問題を解決しようとしているのがよく分かります。これが本当の伴走型というものでした。
ドラえもんも、単にのび太のぐちを聞いているだけなのではありません。毎回、問題を解決しようとしています。私もドラえもんを見習い、奥田先生を見習わねばなりません。人生の初心者として、出会う人の一人一人を、可能な限り、尊重して生きて行きたいと思っています。
(*1)で書いた奥田先生の『ユダよ、帰れ』の後書きに記された私の名前。

