論語と聖書の違い、想定された読者層の違いと、長さの違い

本日は、1か月前くらいに気づいた、論語と聖書の違いについてです。また論語の話ですが、以下の観点から論じたものは少ない気がします。少なくとも私は聖書について以下の点から論じているものは知りません。
気づいたきっかけは、岩波文庫の論語を読んだときです。子路という孔子の弟子がおり、読む限りでは調子のよい人物として描かれていますが、どうも子路は、どこかの国の政治を任されたみたいです。孔子がどこかの国の政治を任されたという話は知らないのですが、どうも論語は、政治を任されるような人が読むことが想定されているのではないか。私は当時、八王子のホテルに滞在していましたが、私が八王子市の政治を任されるようなものです。一般庶民である私には考えられないことです。これで気が付きますが、聖書は確かにもっと貧しい一般庶民向けの書物です。
同じく八王子のホテル滞在時、私はその近辺で、安いTシャツを探していました。足が痛いため、たくさん歩くことは困難でした。しばしば頭に「何を着ようか、何を食べようか、思い悩むな」という聖書の言葉が思い出されました。これは山上の説教の一部で、要するに食べるものも着るものもないような貧しい人に向かって語られた言葉です。論語とはだいぶ違います。
論語に
子、怪力乱神を語らず
とあります。孔子は超常現象の類を語らなかったとされ、実際に、論語に超常現象の類は出ません。それでご承知の通り、聖書は超常現象に満ちているわけです。目の見えない人が見え、足の動かない人が歩けるようになり、5個のパンで五千人が満腹します。これは新約聖書と旧約聖書でも少し落差があり、旧約聖書の奇跡のほうがより「すごい」わけです。海が割れたりします。ノアと洪水の物語も旧約聖書です。
長さについても目安のようなものがあります。論語はそれほど長くありません。岩波文庫で一冊です。新約聖書はずっと長く、線形代数の教科書の5冊ぶんです(いわゆる岩波訳聖書の分冊で)。旧約聖書はその3倍で、線形代数の教科書で15冊ぶんです。
私は聖書については論語(や他の古典)よりも詳しく述べることができます。4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中で、最も「賢い」人が書いたものがマルコによる福音書だと思います。最も知的であるとも言えます。論理的に緻密に書かれ、余計な情報は載せない方針で書かれています。これに対してだいぶ通俗的なのがたとえばマタイによる福音書であり、先述の「山上の説教」が載っているのもマタイによる福音書です。そして、マルコによる福音書よりもマタイによる福音書のほうがずっと長いのです。
旧約聖書はもっと一般大衆向けで、たとえばヨシュア記や士師記など、敵をばったばったと倒す痛快な楽しみであると考えられ(時代劇のような楽しみ)、しばしば露骨な性描写も散見され、太閤秀吉のように一代で王となったダビデのスキャンダルもあり、全体的に週刊誌のようでもあります。おそらくは、貧しい人が週に6日、必死で働いて、週に一度の安息日、会堂で字の読める人の朗読を聞く、テレビのような楽しみが旧約聖書であろうと思われます。(論語は読者が字が読めることを前提としている気がしますが、聖書は字が読めない人が読める人の朗読を聞く状態が前提されているようにも思えます。)
だいたいこの辺までですが、私自身の「とらわれ」という点から申しますと、とらわれからの解放を目指した書として、論語や聖書の価値があると思います。半年くらい前まで、私は友人に勧めてもらった、田内学『お金のむこうに人がいる』をおそらく7回は通読してしまいました。ちょっと読み過ぎでしたが、田内さんのおかげで、ゴールデンウィークごろ読んだ吉野源三郎『君たちはどう生きるか』は痛切に理解でき、また現在、新約聖書ヤコブの手紙の意味がわかりつつあります。病床での励ましの書です。ひとことで言いますとこれらの書は「道徳」を語っていますが、そもそも道徳とは人を束縛するものではなく、アドバイスするものであったのです。「人生の羅針盤」すなわち「理性」というもの、これがお金の価値、仕事の価値、人生における苦難の意味、などの根本にありました。私は人生の初心者だと感じます。以上です。
