「運転はテレビゲームじゃないんだよ」「数学は数学ゲームじゃないんだよ」「人生は人生ゲームじゃないんだよ」

学生時代、実家の近くにある教会の付近に、印象的な交通標語の看板がありました。近くの小学生が考えた標語だそうでした。「運転はテレビゲームじゃないんだよ」。この言葉は奥の深いものでした。「テレビゲーム(運転ゲーム)」と「運転」は違ったのです。この標語と同じように考えられるものが「人生は人生ゲームじゃないんだよ」という「標語」です。人生ゲームと人生の混同が、いろいろな生きる上での苦しみを生み出しているように思うようになりました。一方で、理性のある人は、その理性で人生と人生ゲームの区別がつくことにも気づかされます。

「ゲーム」の特徴に「勝ち負けがある」というものがあると思います。剣道は「ちゃんばらごっこ」です。ちゃんばらゲームです。ほんとうのちゃんばらは、剣による殺し合いです。これをまさに「真剣」ということに気づかされますが、剣道がゲームである証拠に、勝ち負けがあるわけです。ルールに従って試合を行い、二点先取でしたっけ、勝ち負けがありますね。囲碁や将棋もゲームなので、ルールがあって勝ち負けがあります。人生ゲームにも勝ち負けがあります。これに比べ、人生そのものに勝ち負けはないわけです。「勝ち組」「負け組」という言い方はありますが、それはあえて人生をゲームと捉えた場合の遊びであるわけで、あまり本気で「勝ち組」「負け組」と言っているとやばいと思うのですが、このへんが、人生を人生ゲームと錯覚した場合の人生の苦しみの起きる場面ではないかと思います。あえて人生で「勝ち」があるとしたら、幸せに暮らすことではないかと思いますが、幸せというのは、自分だけ幸せでもそれは幸せと言わないのであり、みんなで幸せになることを幸せと言いますので、やはり「勝ち」「負け」という概念はなじまないと思います。

先述の通り、人生ゲームと人生の区別をつけるのは、人間の「理性」だと思いますが、以下に3つの有名な例を挙げます。

お釈迦様(ブッダ)は、出家して、6年にもわたって、修行をしてしまったそうです。体を痛めつけたのですね。そのあと、スジャータという若い娘の差し出す乳がゆを食べ、菩提樹の木の下でしばらく考え、悟った(悟りを開いた)そうです。お釈迦様が気づいたことは、「しなくていい我慢は、しなくていい」ことだったと思います。修行をしていた時代のブッダを描いた仏像の写真を最近見たことがあります。がりがりにやせていて、私は思わず「これぞやせ我慢」と言ってしまいました。この「やせ我慢」という言い方はあまりにもダジャレとして出来すぎで、あまり言わないほうがいいのかも、とも思いながらいま書きましたが、「やせ我慢」と「(本当にせねばどうしようもない)我慢」の区別をつけるのが「理性」であるとも言えると思います。6年にわたって自分の体を痛めつけたブッダは、「とらわれた」人だったのでしょう。ほめてもらえると思っていたのかもしれません。ブッダの気づいた最大のことは「人生は人生ゲームではない」ということだったではないでしょうか。この気づきを「悟り」というと思います。

2つ目の例はそれほど有名ではないかもしれません。新約聖書ヤコブの手紙で、著者(ヤコブさん)は冒頭から「わが兄弟たちよ。さまざまな試練に遭遇する時、大いに喜ぶがよい」「試みを耐え忍ぶ者は幸いである」と、「試練に耐えろ、忍耐せよ、我慢せよ」としきりに言っています。私は学生時代からずっと「ヤコブさん、厳しいなあ」と思ってきましたが、これはよく読むと、ヤコブさんは、苦しい試練のなかにある人に向かって、がんばれ、がんばれと励ましているところだったのです。厳しいのはヤコブさんではなく、現実でした。そして続けてヤコブさんは「試みを受ける者は、神によって試練にさらされているのだ、などと言ってはならない」と言っています。これは、「神様の悪口を言うな!」という「束縛」に思えたりするのですが、この言葉の真の意味はだいぶ違いました。私もいま、試練のなかにいますが、もしもこれが人生ゲームだとしたら、いま私の身に起きていることは「60個戻る」とか「300回休み」というような状態かと思います。そうだとすると、これは人生ゲームの作者(神様?)が、はなはだ根性悪だということになります。そうではないとヤコブさんは言いたいのです。つまり、人生は人生ゲームでないのだよ、だから耐えろ、がんばれ、がんばれと言っておられるのだったのです。

3つ目の例はまた有名です。ジョン・レノンの「イマジン」の最初のほうの歌詞を見ます。

Imagine there’s no heaven
It’s easy if you try
No hell below us

天国はないと想像してごらん やってみればたやすい 我々の下に地獄はない、というふうに意味を取りました。正しいですかね。それで、天国と地獄という発想ですが、それはあたかも、死ぬと閻魔大王かだれかがいて、閻魔帳を見ており(そう、私も教員のころ、閻魔帳を見ていました。教師はあたかも閻魔大王のように人を裁きます)、それで、「あっていたらマル、間違っていたらバツ」というふうに「採点」し、天国行きか地獄行きかを決めるのです。先述の通り、これは、勝ち負け(人生の「勝ち組」「負け組」)のある発想であり、人間は「勝つ」ために「道徳的なルール」を守らねばなりません。それは「とらわれ」です。ジョン・レノンさんが「天国はないと想像してごらん」とおっしゃるのは、「人生は人生ゲームじゃないと思うよ」と言いたいのだろうと思います。

この「運転はテレビゲームではない」「人生は人生ゲームではない」という流れにある命題の一つとして「数学は数学ゲームではない」というものがあります。先に申し上げますと、世の中の人のほとんどが「数学」と認識しているもののほとんどが「数学ゲーム」「数学ごっこ」です。「問題を解くゲーム」なのです。以下に、この点について少し書きたいと思います。

星くず算数・数学教室の誇る生徒さんで、入門時、小学生であり、いわゆる学校の勉強はそんなに得意でないけれども、理性のすぐれた(つまり本質的に賢い)生徒さんがおられます。その生徒さんの何年か前のエピソードです。親御さんから、そのお子さんが、アナログの時計が読めないのではないか、というお話をいただき、われわれ(その子と私)は、小学3年生の教科書に戻りました。教科書に以下のような問いが載っています。

図書館の開いている時間はどれだけですか。 

 開く時こく・・・・午前9時

 しまる時こく・・・午後5時30分

これは、難しいようでした。あいだに12時が入るから難しいですが、しかしこの生徒さんは、身近に具体的に存在する図書館だと答えられたりするのです。ここに、「人生と人生ゲームの違い」があります。教科書に載っている問いは、数学ゲームです。実際問題は、「数学」です。

このお子さんの、理性のすぐれたところは、以下の問答からもわかります。これも2年くらい前ですが、妹さんが九九の四の段が苦手であったことから、妹さんに「クイズ」を出していました。「A子ちゃんは1メートル260円のリボンを4メートル買いました。いくらしたでしょう」。私が「1メートル260円のリボンは相場なの?」とたずねますと「仮想現実だからいいでしょう」と即答されました。教科書の問題は仮想現実であると「悟って」いるのです。(悟りを開く前のお釈迦様より上かもしれません。)このときの問いから1年後くらいに、私はまたその生徒さんに「教科書の問題は仮想現実なの?」とおたずねすると、それは当然であるという認識を示され「『さとしくんは宇宙旅行に行きました』(などと教科書の問いには書いてあったりする)。なぜ子供が宇宙旅行に行くのか」というような例を出しておられました。人生と人生ゲームの区別(数学と数学ゲームの区別、勉強と勉強ゲームの区別)がはっきりついておられます。

この錯覚は、専門の数学に行ってもまだありました。私は東大理学部数学科と東大数理の大学院で学びましたが、おもに修士課程の学生で、セミナーの発表が明解でない学生がしばしばいたのです。(博士課程の学生でもひとり明解でなかった人を思い出します。)なぜそんな人が数学の大学院に入れてしまうのか。それは、問題が解けてしまうからです。数学を「数学ゲーム」すなわち「問題を解くこと」と認識しますと、それで東大の数学の大学院まで入れてしまいますが、それはほんとうの数学ではないため、そこから落ちこぼれるのです。最近、「数学」と「数学ゲーム」の違いを端的に語る例を思いつきました。人生ゲームに強い人が、人生そのものに強いでしょうか。まさか、そんなことはありません。人生ゲームの達人、すなわちすごろくの達人であることと、人生の達人であることに関係はありません。それはまったく別次元のことです。数学ゲームと数学も同様の関係にあります。世の多くの人が、これこそ数学であると思っている「数学ゲーム」に強いことは、あたかも人生ゲームに強いと言っているようなもので、数学そのものへの適性を示しているわけではないのです。数学の大学院で落ちこぼれる学生の実態はこのようです。(よく聞く、大学に入って数学に落ちこぼれる大学生もこんな感じかもしれません。)

(近所の図書館がいつやっているかは、生きる上で必要になる知識です。本を借りようと思ったら、図書館はやっていないかもしれません。それにしても、先ほどの教科書の問題の図書館は、午前9時に開き、午後5時30分には閉まります。閉まるのが早すぎないでしょうか。多くの会社員の人は間に合いそうにない時間です。また、図書館に勤める人も、これは8時間労働、1時間休憩にしても、少し人件費の使い方に無駄があるのかもしれません。私は司書の経験もありますが、もう少し「遅番」は遅くし、午後7時くらいまで開館するものです。どうも、この教科書の問いも、仮想現実?)

私の周囲にときどきいる人ですが、数学が得意で東大に入り、東大数理を出て、数学者になった人です。ものの見事に自己実現を果たした人のように見えます。しかし、彼は充実した人生を送っているでしょうか。数学者は、常に世界の超一流の数学者との交流があり、自分の無力さを痛感する日々でしょう。彼は、苦し紛れの論文を書き続けているのかもしれません。彼はもしかしたら「人生ゲームの勝者」です。高校時代から数学が得意で、東大に行って数学者になるぞと言っていて、本当に東大に行って数学者になった。しかし一度しかない人生で、「それほど才能のない数学者」になって本当によかったのでしょうか。私の仲間で、数学者になった全員がこうではないと思いますが(立派な数学者もたくさんおられます)、しかし、ひそかにこういう人生を送っている人がときどきいるのは確かだと思います。これはあらゆる仕事で言えるでしょう。

これで「運転はテレビゲームじゃないんだよ」「数学は数学ゲームじゃないんだよ」「人生は人生ゲームじゃないんだよ」という話を終わりとさせていただきたいと思います。人生を人生ゲームととらえる人が「とらわれた人」であり、それに気づくことを「悟り」というと思います。人間に本来、備わっている理性で生きて行きたいと強く願います。

目次