「覚える」ということ

以下の記事は、ある子どもの生徒さんの親御さん(お父さん)にあてたメールから再構成したものです。ご本人および親御さんにはブログでの使用許可を得て掲載しています。お子さんの名前をKさん(仮名)とします。

お父さん、および3人のお子さんは、いずれも理性(「人生の羅針盤」と私が呼ぶもの)が正確であるという気がしています。以下に、おもに、Kさん(上から2番目のお子さん)を想定して文章を書こうと思っています。Kさんは、学校の成績がよくないとうかがっておりますので、特に、学校の成績の良さのことを世間一般で「頭の良さ」ということ、そして、それと理性の関係について、少し書きたいと思うからです。

ホテル暮らしのころ、語学と理性について、お父さんに文章が書けたのは私としても大きな収穫でした(注:「語学とは理性の学問である」として当ブログに載っています。最後にリンクをはります)。あのあと、どう考えても語学は得意であるとしか思えないKさんが、英語の試験で中学に落とされているとうかがい、驚いたものですが、以下に「覚える」という、勉強における「頭のよさ」と認識されていることについて、理性との関係を書きたいと思います。

きっかけは、先週の水曜日に、ここから歩いて30分行った駅から2駅である、ある近所の教会での、平日の日中の集会(祈祷会)に久しぶりに出席したことにあります。その教会は、どうもこちらに引っ越してから、教会になかなか行けないと感じ、それは、自営業をしているからで、日曜の午前中の礼拝が行きにくいのだ、と気づいた、今年の4月ごろ、近所のある教会で、この近辺で、平日の午前の集会をやっているところはないか、たずねたことにあります。それで、その2駅行ったところの教会を教わったわけです。その教会は、確か5月ごろに2回出席し、そのあと、今回の病気騒ぎとなり、しばらく行けておらず、この前の水曜日に、かなり久しぶりに行ったわけです。そうしたら、その日は昼食会でした。そこには十人くらいの皆さんが集っておられました。ベテランの女性の牧師さんがおり、久しぶりに来て、ほとんど顔と名前の一致しない私のために、皆さんに、自己紹介と近況報告をするように、順番に話を回しました。こういう集会では、よく見る光景だと思います。皆さんが、ひとことずつ、名前と近況を言い始まりました。平日の日中の集会というのは、想像がおつきになるかもしれませんが、かなり年齢層は高いわけです。どうしても皆さん、体調に関するぐちのような近況となりがちでした。ある女性は、受け入れる、受け入れると言っておられました。自分が弱って来られたので、それの受け入れをしようとなさっておられるのでした。「ものを探してばかりいる」という表現に、私は共感を覚えました。私は、この1、2か月で、急に何十年も歳をとってしまったようで、残念ながら、ひんぱんにものを探しています。その女性の「ぐち」は、私にとって共感を呼ぶものでした。つぎの男性は、それにつられたのでしょうが、やはり「ぐち」でした。若々しく見えましたが、90歳だそうです。先週から、4回も「ぼけた」エピソードがあったそうで、そのうちのひとつは以下のようなものでした。奥さんと音楽会に行くつもりで、サントリーホールのチケットを買ってあり、行ってみると、その催しはやっておらず、ホールの人に聞いたら、それは、サントリーホールでなく、東京国際フォーラムだったのでした。あわててタクシーで行かれたそうですが、最初の曲は聴き逃したそうです。そのようなことが、この2週間以内で、4回もあったそうです。終始おどけた調子で近況を報告され「そのうちこの祈祷会の時間も間違うでしょう」と自身のお話を締めくくられましたが、私は痛切にそのお話に共感しました。先述の通り、私もそうだからです。この男性は、私の41歳も年上ですが、90歳の現在、急にこれらの「ぼけ」が起きているのです。どんなに心細いことでしょう。このあとも、何人かのこういった体調に関する近況報告を聞きましたが、いずれも共感を呼ぶものでした。お年寄りのぐちにしか思えていなかった話が、私にもようやく身近な話題として聞けたのでした。それで、顔と名前はなかなか一致しないものです。これで気づいたのです。「覚える」という行為は、その人間としての共感性、理性によるものであったということです。おひとりおひとりは人間なのです。私より人生の長い方がほとんどだったと思います。それほど長い歳月を生きて来られた、人間であられたのです。

私は、30歳のときに、教員になったわけです。向いていない仕事であったわけですが、最初は、高校1年の担任を持たされました。いきなり知らない顔の40人です。41人だったかもしれません。男子校であり、みんな同じ学生服を着た新入生であり、私は「すべてスペードの神経衰弱のよう」に思えていました。とにかく顔と名前が一致しないのです。担任を持たされなかったあと10年にしても、ずっと、「生徒の顔と名前が一致しない」という現象は、私について回った問題でした。これも、意味が分かりました。彼らは、高校1年生ということは、15歳であり、皆さん、人間であり、それぞれ15年の人生を歩んできた歴史があり、それぞれの物語があるのでした。彼らの中には多く「不本意入学者」がいましたが、それは、その学校がその地で三番手くらいの進学校であったことによります。私自身の出身高校は、県で一番の進学校であり、東大にしても、あるいは東大数理にしても、「不本意入学者」はまず皆無の学校ばかりであったことになり、私はそのような不本意入学者がかなりいる学校の新入生の集まりを前にしていることになりました。とにかく、顔と名前を覚えるという行為は、共感性のなせるわざだと、先週のその水曜の集いで、よく分かったわけです。単なる記憶力の問題ではないのでした。その3日前の集会でも、名前のほかに、必ず近況を言うのも、その人の歴史を少しでも知るためだったのです。

これで「覚える」という行為そのものについて、いろいろ思い出すことがあります。高校のとき、大学受験で使う、いわゆる主要五教科の勉強で、最も不得意なものは日本史でした。私にとって、それらは、それこそ意味もなく覚えねばならない「暗記物」でした。これは高校3年生くらいのことですが、以下のようなことも思い出します。四十代の初めのころ、その地で通っていた教会の牧師(私と同世代の男性)は、かなり歴史や地理の得意な人でした。説教でもしばしば、聖書の巻末に載っている地図を開かせましたし、また、聖書研究祈祷会のようなときでも、おもに旧約聖書に関する紀元前の年号なども、すらすらと出る人でした。歴史の苦手な私には、驚嘆するタイプの人でしたが、どうも、歴史の得意な人の特徴が分かったのです。これも、人間を見ているのです。歴史とは、当たり前かもしれませんが、人間の歴史なのであり、理性と共感性という観点からしますと、その人間のなしてきた歴史が、高校で習った日本史であったり、旧約聖書のイスラエル人の歴史であったりしたのです。単に歴史を「年号を暗記しなくてはならない」と捉えていた高校生の私は愚かだったことになります。でも、学校で習う「覚える」という行為は、そもそもこういう理性と共感性で、人間を見ていくものだったのです。

大学院の学生だったころ、聞いた話があります。ある先生は、気難しいタイプの先生でしたが、だれか人づてに聞いた話で、その先生の、小学生であったお子さんが、当時最新のキャラクターであったポケモンを、百個覚えたというお話でした。いま考えると、その先生の、微笑ましい親ばかエピソードであったと思い返されますが、そのように、子供さんというのは、驚くべき記憶力を発揮することがあります。これも考えてみると、子供というのは、それらのキャラクターに人間性を見ているので、すんなり覚えてしまえるのです。子供はしばしば、車あるいはミニカーも「顔」に見えていたりするかもしれず、あるいは、お人形遊びで、お人形を人間のように見ているのでしょうし、恐竜に夢中になったり、あるいは、近くの山でクワガタをつかまえてきて、戦わせたりするのでしょう。これらは、すべて共感性であり、人間を見ているのだと気づかされます。もしも、ポケモンを百個覚えよ、というのが、一個一点のテストであったなら、それは地獄のような「暗記物」のテストとなってしまうでしょう。

三十代の終わりに、教員免許更新講習をオンラインで受けねばなりませんでした。記憶心理学の先生が「記憶とは情報が付加されていたほうが覚えやすく思い出しやすい」と言っていました。それは確かにそうです。「その日は雨が降っていた」とするなら、その日の記憶は強烈なものとなります。雪が降っていたらもっとでしょう。同じことを、そのころ読んだ弁護士の伊藤真さんの本でも読みました。伊藤さんは、伊藤塾という、司法試験合格のための塾の塾講師をされていますが、いろいろな色のサスペンダーをとっかえひっかえすることで、司法試験を受ける塾生が、「伊藤先生があの派手な柄のサスペンダーをしていたとき、あの刑法の話をしていたなあ」と思い出しやすくするのだという話でした。いずれもなるほどと思う話でしたが、私には画竜点睛を欠く話だったとあとから振り返ります。最も根本には、人間性があるのです。

たった今、私は、机の前に座り、パソコンでこれを書いています。机は、この場合、なくてはならないものです。机は英語で「desk」というと思いますが、机ということにしても、四角くて、脚が4本あり、それが実際にこうして役に立つこと、それ抜きにして、単に単語帳を見て「desk 机」というふうに「暗記」するとしたらはなはだ意味のないものです。そもそも言語とは通じるためにあるものであり、それで、学校でテストを受けて、マルがもらえるためにするのは本当の学問ではないわけです。「wednesday」は水曜日ですが、おそらく私がいま書いたように、最初の「w」を小文字で書くと「バツ」だと思います。しかし、言語とは通じるためにあるものだとしますと、この「採点基準」でテストをするのはナンセンスであり、ましてこういう基準でKさんを落とすのは野蛮であるというほかはないと思います。

Kさんは、クラスメイトの顔と名前が覚えられないということはないのだろうと想像します。その基準ですと、おそらくKさんは「賢い」ということになろうと思います。先述の通り、顔と名前が覚えられるのは理性によるからです。

Kさんが「数に実感をもっている」という現象もここから理解できます。Kさんは、数にも理性をもって臨んでいるのだと気づくからです。1時間が何秒であるか聞かれ、答えられないとしても、それは、1時間が何秒であるか、知る必然性が生きる上でないからだろうと思います。その問いには、Kさんは、千何百秒と答えられ、(正解は60かける60で3600秒ですが、)桁はあっていたとおっしゃいました。数が意味をもつならそうです。テストだと、3601秒でもバツでしょう。逆に、36000秒だと、「惜しい。桁の間違い」となるのかもしれませんが、実際には36000秒は10時間であり、1時間と10時間を間違うほうがナンセンスなわけです。(この理屈を私が言うと多くの受験に詳しい皆さんは、屁理屈だと思われるみたいですが、どちらが屁理屈か、考えてみてもらいたいものです。)

私のこういう話を「ものを覚えるという、東大に合格する秘訣」と思って聞いておられる人は、私の話はそうではないと知って、なあんだと言って去っていかれたりしますが、お父さんはそうでないと信じます。ありがたい聞き手を想定してこの文章が書けます。(残念ながら、先ほどの記憶心理学の先生の話も、暗黙のうちに受験対策だったと思い返されます。教育とうたっていながら、暗黙のうちに受験対策であることがいかに多いことでしょう。)

Kさんが、並みの経済評論家よりずっと経済に詳しい、ということも前に述べました。その意味を書きます。一昨年の末ごろ、Kさんは文化祭のシーズンに「お姉ちゃんの作ったブレスレット、320円!」と嬉しそうにおっしゃっていました。Kさんのお話には、しばしばお金の話が出ます。Kさんが、お金の価値を分かっておいでなのは感じ取れます。おそらく、この金額が、320万円になっても、3200万円になっても、Kさんはお金の価値を理解したうえで運用できる賢い大人になるのであろう、そうしたら、小学生、中学生のころに、少し算数や数学が苦手であったことは、ほぼ誤差であろう・・・というお話は、前にブログの記事にもさせていただきました。ここで思い出されるのは、経済におけるお金の価値として、お金そのものに価値があるのでなく、労働に価値がある、という根本のことがあります。つまり、そのときKさんが言っていたのは、お姉ちゃんがブレスレットを作るということをした労働の話であり、もっとはっきりと言いますと、お姉ちゃんが、そのブレスレットを使う人のことを考え、心を込めて作ったそのブレスレットの価値のことを言っているのだということです。これは、多くの場合、見過ごされている本当の意味でのお金の価値であり、真の経済の意味です。たとえば、1万円のコンサートのチケットがあるにしても、その価値とは、そのチケットで聴くコンサートで得られる感動のことであり、そのコンサートに出演する音楽家の労働、作曲した人への著作物使用料(作曲という労働)、そのコンサートを成り立たせているスタッフの労働、その会場の掃除をする人への謝礼も含めて、その1万円とは、労働の価値であり、そのコンサートを聴いて得られる感動、満足感のことであるわけでした。(その紙のチケットそのものが1万円の価値があるわけではない。また、一万円札というのも、顔の描いてある紙に過ぎず、それそのものに1万円の価値があるわけではない。)これは、当たり前すぎてかえって語られることのないかもしれない事柄であり、ただし、当たり前にしては分かっていない人が多すぎるため(私も長いことそうでした。ごめんなさい)、Kさんは、並みの経済評論家よりよほど賢いわけです。私も、難しい経済用語はなにもわからないタイプですが、ようやくお金の価値は認識しつつある次第です。

そのお父さんにあてたメールはこのへんまでです。お子さんのKさんはとても賢いお子さんでした。このように、本質的に「覚える」こと、語学、そして経済学は、「理性」の学問であるわけでした。同じKさんのおかげで言葉になった、語学とは理性の学問であるという記事を以下にはっておしまいといたします。

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