本物と偽物は区別がつかない

「本物と偽物は区別がつかない」。このことについて、私の身近な例を挙げますね。

A教会のA牧師は、ある地方都市の中規模の教会の牧師であり、同時に近所の中高の校長をしていました。仕事をふたつしていますので、だいたい世間の人の倍くらいの給料をもらっていました。いま、A牧師のことを振り返ってみると、A牧師は金の亡者であったと思います。

いっぽうで、B教会のB牧師は、ある別の地方都市の中規模の教会の牧師であり、併設の幼稚園の園長を兼ねていました。この牧師もだいたい世間の人の倍の給料をもらっていたわけです。しかし、B牧師は、お金に執着していませんでした。人様のお役に立つべく、せっせと仕事をしていた人です。

この2人の牧師の、区別がつかないのです。いまの判断は、私の主観によります。客観的に、この対照的な、しかし極めて似ているふたりの違いは、わからないとしか言いようがありません。

「にせもの」とは、似せているもの、という意味だと思います。本物に似せているのです。したがって、本物との区別は極めてつきづらいものです。

「部下が本物であるかどうかをすぐに見破る6つの言葉」というようなインターネットの記事をしばしば見ます。いかに多くの人が、本物と偽物の区別がしたいか、ということだと思います。しかし、その区別は極めて困難なことでありました。

先ほどのA牧師とB牧師の違いは、お金に執着しているか否か、でした。この「好き」と「執着」というものが、はなはだ区別の困難なものです。

再びキリスト教の例ですみません。私の教派で有名な「こどもさんびか」で、「こどものすきな おうは どなた こどものすきな イェスさまよ」という歌があります。イエスさまは子どもが「好き」なのでしょう。一方で、「子どもに執着する人」はロリコンです。その意味で「こどものすきな おうは どなた」と歌いますと、急に響きが危なくなります。また、歌詞を「おかねのすきな おうは どなた」としますと、これは、顔の描いてある紙そのものが好きな人は稀でしょうから、これはほぼ「お金に執着する」という意味の歌詞になってしまいます。

自分の心の内なる声に耳を澄ますことのできる人は、自分のしたいことがわかり、自分の望むものもわかります。その、自分の内なる声が聞こえない人(それは自分のなかで「こうなったらどうしよう、ああなったらどうしよう」という「恐れ」の声が騒々しいからですが)が、自分の幸せを、金額で測ろうとしますので、これが「金額教の信者」となります。世で「金儲け主義」と言われる「悪い意味の金儲け」はこの意味です。すなわち、A教会のA牧師は、自分の内なる声の聞こえていないがゆえに、金儲け主義に走った牧師であるとわかるわけです。この区別はなかなかつきません。

比較的最近、近所にあるとんかつ屋さんに入りました。チェーン店のようでしたが、お店のおばさんの接客の感じがよく、2か月後くらいに私はリピーターになりました。再びお店に入ると同時におばさんの「はい、いらっしゃいませー」という声を聞きました。これも、本物と偽物の区別はつきづらいのですが、私は直感的に「おばさんは『お越しくださって嬉しい』という気持ちから『いらっしゃいませー』と言った」というふうに聞こえました。また気持ちよくとんかつをいただいて参りました。チェーン店とは言っても、とんかつのおいしさは違います。お店の人の感じのよさまで含めておいしさですので、そのお店は特別においしいのです。

今年の正月、当教室の生徒さんから、年賀状をいただきました。私の領収書に書いてある私の住所に送ってくれた、小学生のお子さんです。ありがたかったです。こういうものはお金では買えません。郵便とは尊い仕事だと改めて思わされます。郵便に限らず、仕事というのは人様のお役に立つことですので、あらゆる仕事は尊いのだと思います。

というわけで、あらゆるものに本物と偽物があります。それは、自分の内なる声に聞かないと、区別のつかないものです。自分の内なる声をよく聞く人間でありたいと改めて思います。

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