イエス・キリストの最後にして最大の教え「食べる前にはいただきますと言いなさい」

教会では「聖餐式(せいさんしき)」という儀式があります。教派によって呼び方もやり方もかなり異なるようですが、いずれにしてもキリストの最後の晩餐を覚えてパンとぶどう酒をいただく儀式です。私の教派では、1辺が1センチメートルくらいの立方体の形のパンと、昔の子供の風邪薬のシロップのようなカップに入ったぶどう酒(あるいはぶどうジュース)をいただく、というものでした。基本的には信者でないと(=洗礼を受けた人でないと)食べられないのが原則でした。これは本当にキリストが望んだものなのか、長いこと疑問でした。

数年前まで、ある教会の金曜日の夕礼拝によく行っていました。その集まりは、信者でない人も多かった関係かと思いますが、聖餐式はほとんど行いませんでした。よく、礼拝後にお茶とお菓子で楽しく歓談しました。あるとき思ったのです。これこそが本当の主の晩餐ではないか。そういえば、学生時代も、当時の若者が、同じく若かった伝道師の家で、夜遅くまで食べたり飲んだりしていたものです。こういうのが本来の「聖餐式」といえるのではないか。

コロナが流行っていたころのことになります。ある教会のオンライン礼拝を見ていました。聖餐式をやっていましたが、あのころはむやみに人がたくさんいるところで飲み食いはできず、あらゆる教会で聖餐式は控えていました。その教会でも、「食べたつもり」「飲んだつもり」の「エア聖餐式」が行われていました。その教会の牧師さんが言いました。「主を覚えて食べるなら、あらゆる食事が聖餐式ですから・・・」。私はその言葉を聞いて確信しました。本来の主の晩餐とは、主を覚えて、すなわち、感謝して食事をすることであった。

「おやすみなさい」はお祈りです。「きょうはいい日だった。神様ありがとうございます」にせよ「きょうは最悪の日だった。あしたはいい日になりますように」にせよ、一日の終わりに言う「お祈り」です。「行ってらっしゃい」も「無事に帰りますように」という願いの込められた「お祈り」です。「ただいま」も「お帰りなさい」もお祈りです。同様に「いただきます」もお祈りなのです。よく、手を合わせて「いただきます」とおっしゃるかたがおいでになります。私にその習慣はありませんが、食べる前に、作ってくださったかた、作物を育ててくださったかた、運んでくださったかた、そして、すべてを作ってくださった神様に感謝して「いただきます」と言っているのです。すべてはおかげさまです。食べ物が食べられるのは当たり前のことではなかったのです。

「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」(新約聖書一コリント11章23節以下)と聖書に書いてあります。これはイエスの最後の教えです。イエス・キリストの最後にして最大の教えは「日曜には必ず教会に行きなさい」でも「献金をしなさい」でもなく、「食べる前にはいただきますと言いなさい」ということでした。

食べる前には「いただきます」と言いたいと思います。さまざまなことに感謝しながら生きていきたいです。「ごめんなさい」と言い「ありがとうございます」と言って生きていきたいです。私は48歳にして、ようやく人間としての根本に立ち返ろうとしています。すべてはおかげさまです。本来の意味で主のみこころにかなう生き方がしたいです。

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