剣道の極意「ひとの頭をぽかぽか叩いて楽しいな」

高校1年生の数学の教科書に「正しいか正しくないかが明確に決まる文や式を命題という」と書いてあります。そして「『10000は大きい数である』という文は命題ではない。その理由を説明しよう」という問いが教科書に載っています。これは、どういう意味でしょうか。
私が大学院で数学者になる夢が破れて30歳で中高の教員になったとき、様々なカルチャーショックがありましたが、以下の問題集に載っていた問いもそのひとつでした。「『3.14は円周率のよい近似である』という文は命題か」。私は命題だと思ってしまいました。しかし、これは命題ではないというのが模範解答だったのです。どういうときに3.14が円周率のよい近似だと言えないくらいの天文学的な(?)計算をするのかわかりませんでしたが、とにかく私は「あっていればマル、間違っていればバツ」の世界で、バツを打たれてしまったのでした。
最初の問いに戻りましょう。10000は、人数だとすると、1つの学校の人数としては大きく、市の人口としては小さいのか。また、これがお金の単位の円だとすると、アイス1個の値段としては大きく、年収にしては小さいのか。そういう意味なのでしょうか。
「ちょっとこれ持ってて」と言ってだいぶ持たせる人がいます。「ちょっと暑いね」といってだいぶ暑いこともあります。新約聖書の「ヨハネの黙示録」の最後のほうでイエス・キリストが「然り、わたしはすぐに来る」と言っていますが、イエスはそれから2000年、来ないわけです。神様の「すぐ」はわかりません。あしたかもしれず、8000年後かもしれません。
ある生徒さんは「1キロはちょっと重い」とおっしゃっていました。これは、何との比較でもなく、1キロはちょっと重いのです。頭が痛いときは痛いのです。欲しいものは欲しいのです。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いなのです。こわいものはこわいのです。そのような絶対的な評価というものがあるのかもしれません。
私は、小学校の2年生から5年生までの4年間、剣道を習っていました。ひたすら弱かったうえに、冬は素足で寒く、先輩、同輩、後輩は厳しいのでした。週に2度、通っていました。これはですから7歳から10歳くらいまでの記憶ですが、そのころ私はすでに「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」と言えない子でした。つい最近、だいぶ「洗脳が解かれてきた」48歳になる私はようやく言語化しました。私は剣道が嫌だったのです!しかし、これは私のなかで言語化されて来ませんでした。なんというか、苦痛なものを耐えるのこそが修行であると思ってしまっているかのようでした。これは、大学オーケストラについても言えますし、30歳から勤務した学校についても言えるでしょう。嫌なものを嫌と言えない私は、あれほど向いていない仕事を、30歳から46歳まで、16年も勤めてしまったのでした。これは「がまんづよくて立派」なのではありません。「嫌なものを嫌と言えない洗脳」のもとにいたということなのです。
聖書に出てくる盲人バルティマイの話の直前に、じつは「ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い」という話が出て来ます。これも気づいたのは最近です。ヤコブとヨハネは言います。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが、「何をしてほしいのか」と言うと、二人は「栄光をお受けになるときに、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と言います。イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言います。
この話の直後で、バルティマイという盲人の物乞いが出ます。ナザレのイエスだと聞くと叫んで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言います。イエスは「あの男を呼んで来なさい」と言い、バルティマイはイエスのところに来ました。イエスは「何をしてほしいのか」と言います。さっきヤコブとヨハネに言った言葉とまったく同じ言葉です。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言います。
そこでイエスは「あなたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とは言いません。バルティマイは分かっているからです。自分が何を願っているか。目が見えるようになりたいのです。目が見えるようになりたい人が、目が見えるようになりたいと言っています。まさに自分の願っていることがわかっています!だからイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言い、バルティマイはすぐに見えるようになったのです。
この2つの話は対の話でした。自分の願いがわかっていない人とわかっている人の、コントラストの物語だったのです。
私はいまこそ「剣道の極意」を悟りました。「ひとの頭をぽかぽか叩いて楽しいな」。これが剣道の極意だったのです。おそらく剣道を習い始めの少年剣士から、日本一の剣道の達人まで、これが暗黙の前提でしょう。オーケストラでもそうでした。結局、みんなヴァイオリンが好き、ホルンが好き、打楽器が好き、オーケストラが好き、音楽が好きだったのです。たとえば私のある打楽器の友人は、オケ全体の音がかき消されるくらい大きな音を出すのが大好きでした。「みんなの音が聴こえなくなるくらい太鼓を大きく叩いて楽しいな」。それこそが打楽器の極意でした。私にはなかったものです。私はほんとうにフルートが好きだったのだろうか。過去の日記を見て考えさせられます。
「『10000は大きい数である』という文は命題ではない」。しかし、「10000は大きい」と思ったら大きいのです。あれが食べたいと言い、あの人は嫌だと言い、困ったときは助けを求め、こわいときは弱音を吐くのです。
いまこそ私は好きなものが好きだと言いたいです。嫌いなものは嫌いだと言いたいです。昨年末(2023年末)、ようやく「あっちむいてほい」が嫌であると言えました。少しずつです。好きなものが好きと言えないと、人生の価値もわからないです。人生に一度しかない「48歳の初夏」を謳歌したいです!
