昔話はみんなの思いが凝縮している

昔話を、「大船に乗っている」「どろぶねに乗っている」という観点から、読みたいと思います。
シンデレラは、大船に乗った「お育ちのよい」人でしょう。ただ、母親が亡くなってしまい、父親が再婚した新しいお母さんが「どろぶねに乗って」いたと考えられます。姉も同様です。シンデレラをいじめます。こういう娘はかわいそうだなあ・・・と思うみんなの思いが凝縮して、シンデレラのところにはかぼちゃの馬車が来るのであると考えられます。
村で若者が次々に結婚して、子供が生まれ、孫が生まれていきますが、ある夫婦にはいつまでたっても子供が生まれない。おじいさん、おばあさんになっても生まれない。いま考えると卵管がつまっていたのかもしれませんが、とにかく、子供が生まれません。私はいま48歳ですが、この年齢は、昔でいえば「おじいさん」かもしれませんね。そういう夫婦に子供さんが生まれてほしいなあ、というみんなの願いが凝縮して、ある日、川上から大きな桃がどんぶらこっこと流れてくるわけです。
昔話に限らなければ、のびのび育ちながら、テストで0点を取り、学校では先生から叱られ、ジャイアンからはいじめられている少年がかわいそうだなあというみんなの思いが凝縮して、未来からドラえもんが来るのだと考えられます。
それにしても、おむすびころりんにしても、花さかじいさんにしても、おじいさんが多いのはなぜか。それは、おそらく正直おじいさんは、大船に乗って、若いころからいい球を投げ続けて来たということでしょう。それで、ずっと「正直者はバカを見る」状態で来たのでしょう。ああいうおじいさんこそ、晩年には報われて欲しい、というみんなの思いが凝縮して、おむすびを転がしてねずみからお礼に小判をもらうような話になるのでしょう。これを「おむすび数個で小判が得られるうまい話」ととらえるのは隣の欲深おじいさんです。欲深おじいさんは、「お金とはお礼である」ということを理解していなかったと考えられます。
この「正直おじいさん」「欲深おじいさん」の対比の物語では、「ここ掘れわんわん」でも「枯れ木に花を咲かせましょう」でも「すずめ、すずめ、お宿はどこだ」でも同様ですね。(最後の例は、おばあさんがどろぶねに乗っていますけれども。すずめの舌を切ってしまう。)
ゼペットじいさんもおじいさんですね。人形が子供になります。
旧約聖書の創世記では、アブラハムが極めて大船に乗った人物として描かれています。アブラハムにはすごい高齢で子供が生まれますが、たとえば、アブラハムが通行する3人の人を盛大に歓迎しておもてなしする話が出て来ます。アブラハムはそういう人だったのです。
このほか、聖書では、ノアもおじいさん、モーセもおじいさんです。
「笠地蔵」では、笠の売れなかったおじいさんが、帰りにお地蔵さんにその笠をかぶせて来てしまいます。帰っておばあさんにそれを話すとおばあさんは「それはいいことをしましたねえ」と言います。このおばあさんは偉大です。おばあさんも大船に乗っていました。そういう夫婦が報われて欲しいから、お地蔵さんがおもちを持ってくるのです。まさかの地蔵の恩返しです。
このほか、昔話から「大船、どろぶね」の例を挙げることはいろいろできると思います。欲深おじいさんがどろぶねに乗っていることは、優先順位を間違えていることからわかります。「大船、どろぶね」の観点から世の中を見渡してみると、びっくりするほど見通しがよくなり、驚くばかりです。
