採点とは極めて人間的な営み

中高の教員であった時代に、「採点」は極めて苦手な行為でした。単純に「あっていればマル、間違っていればバツ」という採点であれば、私は極めて遅いうえに不正確でした。入学試験(そこは私立の学校で、毎年、入学試験がありました)の採点で、いつもビリでした。加えて、普段の定期テストの採点でも、非常に苦しいことがたくさんありました。「採点基準」というものがあるのです。「ここまで書けていたら何点」「単位忘れはサンカク何点」などなど。

しかし、私は当時から思っていました。最も「よい」採点は、採点者の恣意的な採点であると。

以下は若いころ読んだ文章の引用です。どこに書いてあったのか、どこの大学の話か忘れましたので、はなはだいい加減な引用になりますけれども。ある世界的な名門大学の面接試験が恣意的だというマスコミからの突っ込みをその大学が受け、その大学は「その通りです。それでなにが悪いのですか。うちの大学は、それで毎年、優秀な学生をとっていますが」と答えたというのです。面接試験に限らず、試験の採点はこれでいい(これがいい)と思います。

答案を書くのは人間の頭であり、それを採点(評価)するのも人間の頭です。採点とは極めて人間的な営みなのです。

採点基準というものはおよそナンセンスであり「この答案はよくできているな。マル」とか「この答案を書いた人はなにもわかっていないな。バツ」みたいな「恣意的な」採点が最も「よい」採点でしょう。

私がセンター試験を受けた30年前には、センター試験はすでにマークシートでした。マークシートで表現できない解答はできませんし、また出題するほうもマークシートで答えられる問いしか出せないのです。(「自然界にある四角いものの例を挙げてください」というような問いは問えません。これ、いい問いだと思いますけど。いかがですか?)しかし、この30年で、試験とはマークシートで採点するのが「公平」なのだという考えはどうやら全国に広まってしまったようです。私にはこの現象はそらおそろしいような気がいたします。マークシートで採点できるのは学問ではありません。AIにはできない典型的なものが数学です。「成績がいい」のをもって賢いとはまったくいえません(逆も言えます。成績が悪いことをもって賢くないともまったくいえません)。私の知っているある東大を出た友人は、成績がいいのと頭がいいのに関係がないことをよく知っていました。星くず算数・数学教室をやっていてもそれは強く感じます。

いまの無料のAIの知能は小学3年生くらいと聞いたことがあります。しかし、小学3年生は、そのへんで拾った石ころ等に宝物のような価値を見出すことができます。値段(価格)が高いものにしか価値を感じられなくなる大人とどちらが「賢い」のかわからないではないですか。

採点は採点者の直観でやるのがもっとも「いい」採点になると思います。ただし、それは採点者にも力量が問われると思います。賢い人の賢さは賢い人にしか評価されないと思います。「評価そのもの」がクリエイティブな人間の営みです。マークシートで採点ができると思うのはなんらかの幻想であると私には思えます。「あっていればマル、間違っていればバツ」というのは、学問とはほど遠い、壮大な「洗脳」なのでしょう。

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