好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい

私の知っているあるアワビの好きな若い仲間がいます。アワビは私も好きです。おいしいですよね。アワビは高いです。しかし、アワビの高さ(値段)は、アワビのおいしさを表しているのではないことに気づかされつつあります(田内学さんの「お金のむこうに人がいる」で学びました)。アワビの値段は、アワビを捕るのに必要になった手間賃の高さなのです。どうやってアワビを捕るのか知りませんが、海女さんが海から捕ってこられるのでしょうか。そして(私が北海道の釧路で見たように)市場で売られ、運ばれて来て調理される。お金とはお礼です。それらの手間がかかることが、アワビの高さでした。もっとも、高くておいしくないものは商売にならないでしょう。アワビは高くても食べる人がいるから商売として成立するのです。(「早い、安い、うまい」というご商売もあります。アワビは「高い、うまい」というご商売なのでしょう。)

そして、アワビは、食べて「おいしい!」と思うことこそが価値です。これがお金の価値であったのです。おいしいものをおいしいと言えなかったら、お金の価値は理解できないことになります。私は長く好きなものは好きと言えないタイプでした。いまもそうです。私は長いことお金の価値を理解していなかったのです。

いまから20年以上前、私が27歳のころ、「笑点」の観覧が当たりました。私の名前で出しても当たらないのですが、7歳年下の女性の友人の名前で「井上里恵 20歳」(仮名)と書いたらいきなり当たったのでした。笑点の正月スペシャルの観覧が当たったのです。

しかし、井上さんは事情で来られなくなったのです。寮の劇の練習と重なったとのことでした。私も(井上さんとは違う寮でしたが)寮の経験があるのでわかりますが、こういうとき寮の行事は絶対なのでした。そこで私は、20歳に見えそうな他の女性の友人に電話をかけまくりはじめました。20歳に見える女性がいないと私は観覧することができません。思ったよりお笑いの好きな女性はいました。行きたいとおっしゃってくださる友人はたくさんいたのですが、その日、都合のつく人がいません。ようやくつかまったのは、私と同い年の27歳の友人で、お笑いに興味のない仲間でした。彼女は、7歳もサバを読まなくてはなりませんでした。それより申し訳なかったのは、彼女はまったくお笑いに興味がなかった、ということでした。苦痛の5時間だったでしょう。私も立場が逆なら分かります。私はスポーツ観戦全般に興味がありません。いかに入手困難で貴重なチケットであったとしても、たとえばサッカーの試合の観戦に付き合わされたら、苦痛以外の何物でもないです。

いかにアワビが高級でも、アワビが好きでない人からしたら、いくら食べてもうれしくないでしょう。

お金というのは、アナログに言っても紙でしかありません。たとえばコンサートのチケットを買っても、そのチケットもまた紙なので、チケットそのものから音楽が聴こえてくるわけではありません。そのチケットを持ってホールに行くと入れてもらえて、中で音楽が聴けるわけです。これも、音楽を聴いて「楽しかった!」「感動した!」というから価値があるのであり、お金そのものに価値があるわけではないです。これは映画でもなんでもそうです。お金は紙に過ぎません。(デジタルに言えば、紙ですらなく、スマホの中の数字に過ぎません。)

たとえばマンションの管理費、修繕費もそうです。お金は紙に過ぎず、紙そのものがマンションの管理をしたり修理をしたりするわけではありません。それ(お金。「お礼」)を受け取った人が実際に働いてマンションの管理をしてくださるのです。「管理人さんありがとう!」というのが管理費でした。

私のフルートの先生の発表会では、たとえばプロのフルート奏者になったような人も吹いていましたが、一方でたとえば、お世辞にもそんなにうまいとは言えないおばあさんが吹いていたりもしました。しかも、ビゼーの「アルルの女」のメヌエットなどという、ちょっとフルートを知っている人なら知っている「難しそうに聴こえないがじつは難しい」曲を吹いておられたりします。しかし、私も塾講師になったからなおよく分かりますが、ちゃんと謝礼を払っておられるなら、どのような人が私の先生にフルートを習ってもよかったのです。へたな人はフルートを吹いてはいけないというルールはどこにもありません(そんなルールがあったら誰もフルートが吹けないでしょう)。そして、私はほとんど、やりたい曲、やりたくない曲がなく、先生から与えられる曲をずっとやって参りましたが、そのおばあさんは、明らかにビゼーのアルルの女のメヌエットがやりたいと先生に言ったのでしょう。フルートを習いたいからフルートを習い、やりたい曲をやって楽しむ。これこそ本当の趣味であり、まさしく本来のお金の使い方であり、そのおばあさんは充実した余生を送っておいでだったのです。

私の若いころ「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」(槇原敬之「どんなときも。」)という歌詞の歌が流行りましたが、改めてその意味をかみしめています。好きなものを好きと言える気持ちが、お金の価値の前提にあったのです。私は長いことお金の価値を分かって来ませんでした。いまこそ私は好きなものを好きと言える人間になりたいです。真にお金の価値の分かる人間になりたいです。

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