読む人がいなかったら書けない

私は現在、あるホームぺージを準備しています。その制作担当のかたから言われました。ブログを書いてくださいということです。ブログのデメリットとしては、たとえば最終更新が2019年(つまり3年前)とかだったら信用を失う点です。確かに。「この人、生きているのかな」というふうになると思います。しかしブログはやったほうがよいと言われます。そして、最近、そのサイト制作者から、サンプルのブログを3本から5本、書いてくださいと言われました。そこで、おとといくらいから書こうとしたわけです。
まったく書けないのですね!そのホームページに関することでも書けない。頭をひねっていろいろ考えました。アイデアはあります。しかし、言葉が活きた言葉にならない気がします。おとといときのう書いたものは両方ともボツにしました。どうも「壁に向かって話している」感じなのです。ブログって読む人がいなかったら書けないのだ、ということを痛感した次第です。
「エクセルのマクロを書く」というのも「使う人がいる」と思うからこそ書けるものであります。最近、「学校の時間割を作るマクロ」を書きましたが、それも実際に使う人がいたから書けたのです。私がときどきゲームのマクロを書くときも、それは子どもが遊んでくれるかなと思うから作れるわけです。マクロも実際に使ってくれる人がいなければ書けません。
20世紀の世界的フルート奏者であったジャン=ピエール・ランパルは、何千人を前にしたリサイタルでも、「特定の誰か」のために吹いていたと言います。ランパルは愛妻家であったので、奥さんが聴きに来ているときは奥さんのため。そして、客席に奥さんがいないときは、とにかく舞台へ上がってだれかを見つけて「あの人のために吹こう」と思って吹いていた、と自伝に書いています。(ランパルの自伝『音楽 わが愛』はものすごくおもしろいので、とくにクラシック音楽がお好きなかたにはおすすめしたい本ですが、Amazonなどでは古本がとてつもない高値で売られているので買うのをあきらめてしまいがちです。しかし、この本は、全国の「村松楽器」でかなり在庫があります。どうぞ「村松楽器」でお求めください。新品が定価で買えます。ものすごい誤字脱字の嵐の本ですけどね!)
数学のセミナーというものもそうでした。数学の世界ではよく「セミナー」というものが行われていました。これはおもに学生が先生や仲間の前で、誰かの書いた論文を紹介したり、あるいは自分で考えたことを話すものということなのですが、先輩、同輩、後輩、そして先生と言われる人もみんな研究者ですから、先生でも学生でも対等にセミナーをしていました。そして、セミナーとは「人前で発表する」ということに意味がありました。人前で話すことによって自分の考えは整理されるのです。まず、人前で話すとなったら、準備をします。その段階でかなり自分の考えが整理されます。とにかくこのことは「聞いてくれる人がいなかったら話はできない」ということを象徴していたと思います。
そのホームページ制作者だって、誰も見ないサイトは作れないだろうと思うのですね。ブログだって、読む人がいなかったら書きようがない。このブログは、ある外国人の友人が読んでくれることを想定して書いています(Googleで自動翻訳するつもり)。そして、ココナラで読んでくれるかたがおいでになることを想定して書いています。この記事をそもそもその「サンプルのブログ」にしようとしていますが、とにかく「誰も読み手がいないのにブログを書く」のは不可能だと悟ったのです。
新約聖書の「ルカによる福音書」および「使徒言行録」は「テオフィロ」という人に向けて書かれています。両方の書ともルカが書いたと言われており、両方とも冒頭にテオフィロという人物への献呈の言葉が書かれています(ルカ1章3節、および使徒1章1節)。ルカによる福音書は新約聖書のなかの書物のなかで最もページ数が多い著作です。でもルカは「テオフィロ」がいなければ福音書も使徒言行録も書けなかったのだ!
考えてみれば、食事を作るのでさえも、食べてくれる人の喜ぶ姿を思い描いて作るものであるし、掃除をするのも誰かのためです。自分しか使わない部屋はどうしても散らかります。西原宜幸(にしはら・のぶゆき)さんがホームレスになられた理由として大きいとおっしゃっていたのが、お母さまをなくされたことだそうです。お母さまのご存命のころは、お母さんを養うために働いていたそうですが、お母さんがなくなってから、自分さえ生きられればいいと思うようになり、だんだん生活が乱れてホームレスになられたというようなことをYouTubeでおっしゃっていました。西原さんは長いホームレスの生活をへて、いまはホームレス生活を脱却して地域でお住まいです。
さきほど音楽の例でランパルを出しましたが、もう少し音楽で例を挙げましょう。歴史的な世界的オーケストラ指揮者で、セルジュ・チェリビダッケという人がいます。チェリビダッケは、生前、かたくなにレコードをつくることを拒否していました。現在、聞かれるチェリビダッケの録音は、演奏会の録音を彼の没後に遺族がリリースしたものです。彼もまた、聴く人がいなければ演奏できないタイプの演奏家だったと言えるでしょう。また、さきほどのフルートとは違って、指揮者というものは、演奏する人がいなかったら成立しない役割です。フルートでさえも、ピアノ伴奏者が必要であることは多いのですが、指揮者というものはオーケストラがいなかったらまったく成立しません。私は指揮者の経験もありますが、それは強く感じたものです。
とにかく、読んでくれる人がいなければ本は書けないし、聴いてくれる人がいなければ講演もできないし、使ってくれる人がいなければソフトウェアの開発もできないのです!今回「サンプルでブログを書いてください」と言われて、それが不可能であることを痛感したのです。
旧約聖書の創世記の2章18節で神は「人が独りでいるのはよくない」と言っています。この言葉がいいたいことは「そもそも人は独りでは生きられない」という意味だと思います。人は誰かのために生きています。そして、誰かに助けてもらって生きているのです。
