モーセの十戒は束縛ではなかった。神様のアドバイスだった

最初に触れるのは、4週間ほど前の気づきです。当時、私は八王子のホテルに滞在していました。部屋のテレビにアイドルグループが映りました。皆さん、美男美女です。アイドルとは「偶像」という意味です。これで気づきましたが、なぜ聖書で偶像崇拝がよくないものとされているか、わかったのです。これも、束縛ではなくアドバイスでした。

モーセの十戒の最初に書いてあります。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(旧約聖書出エジプト記20章3節)。これは、執着しすぎることへの警告でした。例えば、お金に執着すると拝金となります。拝金で身を滅ぼす人はたくさんいます。ですから神様がアドバイスをしているのです。わたし以外のものを神のように崇めないほうがいいよ。身を滅ぼすからね。と。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(新約聖書マタイによる福音書6章24節)もこういう意味でした。あるいは、学歴に執着すると、狂ったように子供を塾へ行かせる親となってしまうかもしれません。これも身を滅ぼします。こういうものへの神様の注意がこの十戒の最初のいましめの意味だと理解したのです。

もちろん、人間には執着する権利があると感じます。誰でも、ほめられたいし、モテたいし、お金は欲しいです。ただ、執着が過ぎて、それらを神のように崇め始まると身の破滅なので、神様がアドバイスをしているわけでした。どこからが危ないレヴェルの執着なのか。それは、理性すなわち神様が人間に与えてくださった知恵で判断するものでしょう。この感覚を、バランスもしくは中庸というと思います。

同じように、「殺してはならない」といういましめもアドバイスでした。ときどきぶち殺してやりたくなる相手はいるものです。でも、本当に殺すとどうなるか。そのときはちょっと悪を退治したような感じで、いい感じがするかもしれません。しかし、のちにたとえば遺族から復讐をされるでしょう。大変なことになります。だから神様が「殺さないほうがいいよ」とアドバイスしているのだったのです。殺したい相手を殺さないのは「理性」というと思います。「盗んではならない」も同様で、どれだけ腹が減っていても、隣人の食べ物を盗まないほうがいいのです。「姦淫してはならない」も同様であり、浮気や不倫は身の破滅です。これらはすべてアドバイスだったのです。そして、これらのいましめを守るのは、理性によるのでした。

これらは、「世間の法則」によっています。殺さないほうがいいこと。執着しすぎないほうがいいこと。これを新約聖書のヤコブの手紙では「自由の法」(1章25節、2章12節、4章11節)と言っていると思います。ときどきこの発想に至る人はいるようです。評判がいいとインターネットでたくさん検索されて上位に来ること、それはもしかしたらGoogleさんの法則かもしれませんが、世間一般で、評判のいい商売は繁盛することであるなら、「世間の法則」と言えるでしょう。本来、律法とは世間の法則のことを言っており、十戒とは神様のアドバイスだったのです。

私は長いこと、アドバイスを束縛ととらえる道を歩んできて、たくさんの人に迷惑をかけ、自分をいたわることなく生きてきてしまいました。残った人生で、皆さんへの感謝を述べ、そして罪滅ぼしをしたいです。

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