自伝風の読み物 ㉘ 修士論文の第二主定理

大学院以降の話は、おもに「すうがく徒のつどい」にお集まりの、院生くらいのお若い方を聞き手に想定して書いています。前回までの話は、以下のリンクをご覧ください。修士課程1年で考えたことが書いてあります。

本日はその続きです。前回と同様、物語調で書きます。詳しい話は、今後、出版される修士論文をご覧ください。私の修論は[F]です。仮定する予備知識は「群」「基本群(単連結)」「(正規)部分群」「群の作用」「群の表示」「complex(複体)」「イソトピー(ホモトピー)」「ホモロジー」「多様体」等になりますが、とくに予備知識なしでも物語としてお読みになれるように書きたいと思います。

新しい研究に向かうためのキーワードの一つで「Torelli群」というものがありました。当時、活発に研究されていた、曲面の写像類群の正規部分群です。曲面とは向き付けられた2次元の多様体であるとし、種数を${g}$とし、境界成分の個数は0か1とします。Torelli群と聞いた私は、ノートのいくつかを読み、あるTorelli群の定義を読みました(いいものは同値な定義がいくつかあるものです)。それは「写像類群の元のうち、曲面の1-homologyを動かさないもの(つまり曲面の1-homologyにtrivialに作用するもの)全体のなす部分群をTorelli群という」というものでした。これを読んだ瞬間、ひらめいたことがあります。Torelli群は、私が作った colored extended Hatcher complex にfreeに作用するのです(*2)。

Torelli群が、colored extended Hatcher complex に、freeに作用するとは、Torelli群の1でない元によって、colored extended Hatcher complex上の点は、必ず別の点に移るということです。(colored extended Hatcher complex上の点で、Torelli群の元で動かないものがあれば、そのTorelli群の元は、1である。)この直観をご説明します。この逆はすぐに例を見ることができます。

colored extended Hacher complexの頂点は、曲面のcolored quilt decompositionです。例として、${g=2}$、境界なしの曲面上のcolored quilt decompositionを、以下の図のようなものと考えます。以下の図は、当教室のロゴです。(知らないと、白目をむいた顔に見えます。いつも皆様に不気味な思いをさせてしまっていて、申し訳ありません。)

これに対し、写像類群の元として、以下の図のように、真ん中の点を通る軸(濃い赤でかいたところ)に関して「くし刺し180°回転」を考えます。これは明らかに曲面の1-homologyを動かすので、Torelli群の元ではありません。そして、これでcolored quilt decompositionを動かしますと、同じcolored quilt decomposition に写ることも容易に見てとれると思います。つまり、このcolored extended Hatcher complexの頂点は、自分自身に写ります。つまり、固定点があるわけです。

この逆が言えると直観したわけです。Torelli群の1でない元でcolored quilt decompositionを動かしたら、自分自身になることはないのであろうということです。それは証明できます。

それで、以下のように思うわけです。Torelli群の表示は、当時、求められていませんでした(今も求められていない気がしますが、ここ二十年の進展を知らない私は、よく知りません。とても難しい問いなのだと思います)。先ほどの私の(*2)の主張は、Torelli群の表示があることを示唆します。それは、以下のような理由です。

colored extended Hatcher complexは単連結であること(第1主定理より)と、colored extended Hatcher complexへのTorelli群の作用がfreeであることから、colored extended Hatcher complexをTorelli群の作用で割ると、基本群がTorelli群になります。そして、2-cellはすべて記述されていることになります(再び第1主定理より)。それで、Torelli群の表示が原理的にはあることになるのです。

指導教官であった河野先生は、当時お忙しく、何か月か単位で海外に出張に行かれることが多かった気がします。このことも、河野先生へのご報告は遅くなったと思います。河野先生へのご報告の前に、いろいろ自分でも考えてみました。もちろん実際にこれでTorelli群の表示を計算しようとしたのですが、どうも筋悪です。基本領域が大きすぎるのです。似たことをして写像類群の表示を求めることに成功している[HT]は、写像類群が作用する連結かつ単連結な2-cell complexを作っていますが、それは、写像類群の作用がfreeになるように作ってあるわけではありません。非常にうまく作ってあるのです。私の複体は、Torelli群の表示を計算するには向いていないようでした。

河野先生へのご報告は、修士課程2年の秋くらいであったと思います。私が、colored extended Hatcher complexへのTorelli群の作用はfreeであると言いますと、先生は、それはTorelli群の表示があるということですね?とおっしゃいました。そして、complexから群の表示を求める論文等をいろいろ教えてくださいました。私はそれを読んで、再びTorelli群の表示を計算しようとしましたが、やはり、筋悪であるというふうに思えました。

河野先生のセミナーで、(*2)の証明をお話しする機会がありました。このときの原稿のノートは残っています。これは、長いこと紛失したと思っていたノートですが、このたび(今年、2026年に入ってから)、論文やノートを入れた古い段ボール箱から出て来ました。2000年10月のノートです。それをよく読みますと、まず、そのときの前の回までの訂正として、第1主定理となる定理の、細かい議論について書いてあります。修士課程の1年の1999年12月までに、骨子はできていたわけですが、細かいところの議論はいろいろあったのだと思い出されます。(*2)の証明は、エレメンタリーになされています。これが私の修論の第2主定理となるわけです。

そのノートにも書いてありますが、どうも、Torelli群には、何回かやって1となる元はないのではないかという気がしていました。それが明らかになれば、この証明は大分すっきりします。これについて、ときどき誰かにたずねていましたが、あるとき、Torelli群に、何回かやって1になる元はない(Torelli群はtorsion-freeである)ということを教えてくださった先生がおられました。[Iv]に書いてあるそうです。確かに、[Iv]に書いてありました。修論に載せた証明は、そのTorelli群がtorsion-freeであることを用いた証明でした。2000年10月にセミナーで私のもともとの証明を聴かれた河野先生は「自分の証明も大切にしてくださいね」というアドバイスをくださいました。(だからそのノートを大切にとっておいたのだったかもしれません。)

プライベートでは、この年度(2000年度)の最後に、キリスト教の洗礼を受ける(正式に信者となる)ということがありました。この前の年度の最後のころ、精神の調子が少し悪く、この年度の頭から精神科に通い、少し薬を飲むようになっていました(翌2001年度、博士課程で大きく調子を崩す前兆でした)。病気をやってから、楽器(フルート、ピッコロ)はうまく吹けなくなってしまいましたので、フルートがうまく吹けた最後のころでもあります。あるアマチュア吹奏楽団でエキストラをしていたほか、発表会にも出ました。

私の修論は、2つの主定理を載せたものになりました。先ほど述べました通り、第2主定理の証明は、Torelli群がtorsion-freeであることを使った証明が載っています。論文のタイプに苦労しました。「英語」「TeX」「図」が三大難所だったと思います。2001年1月提出ですが、その直前は、論文のタイプで必死だったと記憶しています。

修論の発表会、あるいはその予行、そして、博士課程の入試と、何度か修論の内容を皆さんの前でお話しする機会がありました。その年、トポロジーで修論を出す仲間は、私も含めて4人でした。その4人と、司会の先生の前で、互いに発表し合いました。司会の先生の鋭いご質問もありがたかったです。私の研究は皆さんの興味をひくことが出来、他の3人のうち、3人ともが、私の修論を欲しいと言ってくれました。お互いに修論のコピーを渡し合いしました。(私の修論が最も体裁の整っていないもので、かっこ悪かったです。)これで、私の修論は、世の中に3部はコピーがあると思ったのです。(おそらくもっとコピーは世にあったようです。)

修論の発表会で、私の発表を織田孝幸先生が聴かれていました。織田先生は、トポロジスト以上にトポロジーにお詳しいと、森田茂之先生からうかがっていました。織田先生は私の発表を聴かれ「いろいろな複体が出て来ましたが、それらの関係は?」とおたずねになりました。私は、張り切ってお答えしようとしましたが、そのとき、織田先生は去って行かれました。「この学生は大丈夫!」とお思いになったということだとそのとき気づきました。

博士課程の入試で、幾何の先生がすべておられる中、私は修論の説明をし、第2主定理の説明のとき「もともとこの定理は、Torelli群がtorsion-freeであることを使わないで証明したので」と言いましたところ、先生がたが、おおという感じになり、古田幹雄先生が「そこからTorelli群がtorsion-freeであることは言えますか」とおたずねになりました。とっさにできませんと答えてしまいましたが、これは、よく考えると、考えてみたことはありました。それは、先ほど述べました、河野先生のセミナーでの発表より前、2000年9月に大阪で行われた、リーマン面研究集会のときのころ、考えていました。おそらくできるのです。漠然と、知らない町である大阪の町を歩きながら考えていた光景を思い出します。Torelli群がtorsion-freeであることを知らなかったので、それがここから言えるか、考えていたのです。この議論はもう残念ながら思い出せません。(曲面上のモース関数を、写像類群の元で引き戻そうとしていました。写像「類」だから、厳密には引き戻すというのはおかしいが、そこはなんとか乗り越えて・・というふうに考えていました。)

その2000年9月の研究集会で、佐賀大の広瀬進先生から、書けたら一部送ってくださいとおっしゃっていただけており、私は書けたとき、広瀬先生に一部お送りしています。それが、市川尚志先生に渡り、市川先生は2004年に引用してくださいました([Ic])。

この修論を、提出から25年以上の時を経て、出版しようとしているわけです。少なくとも第1主定理は、現在でも出版する価値があるとこのたび知ったわけです(同じ話を何度も書いてすみません。本当に驚いたので)。第2主定理は、先ほど述べましたが、もともとのエレメンタリーな証明を書いたノートが出て来たわけです。これを解読して載せるのは大変であり、たった今も当時の議論をちゃんと思い出そうとしてがんばっておりますが、せっかくこのノートは出て来たので、この証明も載せたいです。なんとかしてこの修論の出版をがんばりたいです。

本日もここまで、物語調で書いて参りました。この次の回は、修論提出後に少し考えたこと、そして、忌まわしい病気について、そして、2004年に引用され、岡山大の中村博昭先生の前で講演をしたところまで、書きたいと思います。それはまた後日、書いて公開します。本日は以上です。お読みくださり、ありがとうございました。

References

[BK] B.Bakalov, A.Kirillov Jr. On the Lego-Teichmuller game,Transform. Groups 5 (2000) no.3, 207-244

[F] H.Fuchizawa, Quilt decompositions of surfaces and Torelli group action on the extended Hatcher complex, preprint

[FG] L.Funar, R.Gelca, On the Groupoid of Transformations of Rigid structures on Surfaces, J. Math. Sci. Univ. Tokyo 6 (1999), 599-646

[Ha] J. Harer, The second homology group of the mapping class group of an orientable surface, Invent. Math. 72 (1983), 221-239

[HLS] A.Hatcher, P.Lochak, L.Scneps, On the Teichmuller tower of mapping class groups, J Reine Angew. Math. 521 (2000), 1-24

[HT] A.Hatcher, W.Thurston, A presentation for the mapping class group of a closed orientable surface, Topology 19 (1980), 221-237

[Ic] T. Ichikawa, Teichmuller Groupoids, and Monodromy in Conformal Field Theory, Commun. Math. Phys. 246, 1-18 (2004)

[Iv] Ivanov, Subgroups of Teichmuller Modular Groups, translations of Mathematical Monographs Vol.115, American Math. Soc. (1992)

[N] 中村博昭、リーマン面の”キルト分割”とGrothendieck-Teichmuller群、東大数理、トポロジー火曜セミナー、1999年6月22日

[NS] H.Nakamura, L.Schneps, On a subgroup pf the Grothendieck-Teichmuller group acting on the tower of profinite Teichmuller modular groups, Invent. Math. 141 (2000) no.3, 503-560

[W] B.Wajnryb, A simple presentation for the mapping class group of an orientable surface, Israel J. Math 45 (1983), 157-174

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