「聖書は昔のテレビではないか」という説の概略

ときどき私が記事に書いている「聖書は昔のテレビではないか」という説について、概略を書いておきたいと思います。2年とちょっと前に書いた話ですが、現時点での新しい視点もあります。

昔から、人は一週間のうち6日働いて、7日目は休み、会堂へ行き、字の読める人の聖書の朗読を聞いたのではないか。それはあたかも現代の人の、テレビかインターネットのような楽しみではなかったかと思うのです。

たとえば、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出しました。前は海、後ろからエジプト軍が追いかけて来ます。絶体絶命ですが、モーセが手を海に伸ばすと、海が左右に分かれて、海底の乾いたところが現われました。民はその乾いたところを通って渡りました。エジプト軍が来たときには海は元通りになり、エジプト軍は海で滅びました。これは「やったー!」という場面であり、ここでひとつ歌が歌いたくなりますが、そこにはちゃんと「海の歌」というのが載っています(旧約聖書出エジプト記15章)。ミュージカルのようになっているわけです。このように、少なくともこの場面は、なんらかのテレビ番組のようなものと認識することができると思います。

「士師記」のような、敵をばったばったと倒す痛快な話は、時代劇のような楽しみであったのだろうと思います。サムソンなど、非常に「暴れん坊」な「将軍」であるとも言えると思います。実際、昭和の時代劇も、題材を、テレビの存在するずっと前である江戸時代に取っていましたが、「士師記」も、題材を、文字の存在するずっと前であろう士師の時代に取っており、まさに「時代」劇であると思います。

ダビデは、一代で王となりますが、これはあたかも一代で太閤となった秀吉のようです。ダビデはその生涯のクライマックスに、バト・シェバの件でスキャンダルがありますが、これはやはり週刊誌のようでもあります。

「詩編」は、当時の賛美歌であると私はよく説明を聞きましたが、どうも腑に落ちませんでした。これは、みんな大好き「歌番組」ととらえると納得がいきます。

エレミヤ書に代表される預言書は、なぜこのように長くて不可解なものが収録されているのか、これも長いことわかりませんでしたが、これはツイッターであると認識すると合点がいきます。「支離滅裂の愚痴の散乱」です。正しい人が理不尽にもひどい目にあって愚痴を言う番組は、昔から非常に人気があったのです。

(それだけではないとも思いますが。エレミヤは、バビロンに滅ぼされるぞと言いました。おそらくエレミヤは、どう論理的に考えるとそういう結論に至るかという、「理由」も述べたのだろうと思いますが、そして、そうならないために行動することを呼びかけたのだろうと思いますが、彼の言っている意味を理解できないほとんどの人にとってエレミヤの言葉は「やたら不吉なことを言う頭のおかしい人の言葉」というふうに聞こえただろうと思います。それでエレミヤは悪い扱いを受けるわけですが、周囲の人にわかりやすい指標は「本当にバビロン捕囚は起きた」ということです。こうしてエレミヤ書は後世に残ったのだと思います。)

このほか、ちょっと真面目にいい話としてルツ記があり、ちょっとエッチな話として雅歌があります。敵をやっつける痛快な話として、エステル記やダニエル書があります。聖書のすべてをこの調子で理解することはできませんが、少なくとも聖書にテレビとしての側面があるのは確かだろうと思います。

旧約聖書ばかり例に挙げましたが、最後に新約聖書の「ヨハネの黙示録」を挙げます。これは怪獣映画です。クライマックスでは、怪獣が暴れまわって、もうどうなるのだろうと思うほどですが、最後は平和が訪れます。黙示録では、獣と竜が出ます。これは、ゴジラ対キングギドラと言っているようなもので、やはり、二匹登場させたくなるのです。ゴジラが獣で、キングギドラが竜です。黙示録の竜は、頭が7つで角が10本ありますが、確かキングギドラも頭が複数あると思います。よくよく昔から人間の考えることは同じだ、と思わされます。

こういう話をあまり専門家の前で言ったことはありませんが、おそらく専門の先生もこう思っておられるのでしょう。本日は私の聖書テレビ説の概略を書かせていただきました。各論はまたいずれ書かせていただきます。

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