自伝風の読み物 ⑭ 『ゲーデル、エッシャー、バッハ』

中学生のころの思い出です。家にダグラス・ホフスタッター著「ゲーデル、エッシャー、バッハ」というぶ厚い本がありました。そのころまでに、バッハという作曲家は、フーガ ト短調や二声のインヴェンションのいくつかを習っていて、その非常に緻密な構造の音楽に圧倒されるような思いで接しており、その本に興味を持ちました。エッシャーの絵も子供向けの本で知っていました。ゲーデルという名前は知りませんでしたが、読み始めました。非常におもしろい本でした。章と章のあいだに配置された、アキレスや亀、蟹などが出てくる会話は、バッハのフーガやカノンを模していておもしろく、本文は難しかったですが、全体的に非常におもしろく読んでいました。いまから1、2年ほど前に、当教室でこういった内容を学ばれた方があったため、久しぶりに図書館で借りて読み返しましたが、非常に饒舌に書かれた本でした。(教科書風なのではなく、「科学読み物風」の書だといえます。そういう本はときどきブルーバックス等でもあったものです。)私はこの本を読み、当時、ゲーデルの不完全性定理の主張するところ、および証明の概略は、理解していたことになります。それは、ずっと後、大学院の修士課程を修了する(修士論文の提出の)ころ、教会で知り合ったある男性との会話で確認できました。その方は東大数理の先輩であり、私とは専門が違いましたが(私はトポロジー)、その方は修士課程を終えて企業に勤めておられ、そのころ、数学基礎論の研究をされていたのでした。食事をしながら話し、私が「ゲーデルの不完全性定理の主張は、あたかも無限生成の群が、有限個の生成元をいくら並べても生成し得ないようなものか(公理をいくら並べても、真なる命題のすべてが生成し得ない)」と聞いて、だいたいそうだと言われたことで確認できました。このことをだいぶ饒舌に、いろいろおもしろい話題を取り入れつつ、語った本なのでした。

当時、家には旧式のパソコンがありました。インターネット等のある前の時代です。BASICを覚えてプログラミングにはまりました。中高6年間で、およそプログラミングできそうなものは大概やったと思います。この本に出て来た命題で、「${4}$以上の偶数は、${2}$つの素数の和でかける」というものがありました。${4=2+2}$、${6=3+3}$、${8=3+5}$、そして${10}$は${3+7}$とも${5+5}$とも書けます。この命題は、この本の時点で、真とも偽とも言えない命題でした。真だと証明した人もおらず、反例をあげた人もいないようなのです。(現代でも未解決問題であるようです。ゴールドバッハ予想と言います。こういうとき、バッハの鍵盤曲「ゴールドベルク変奏曲」と並べて語呂合わせをするような仕掛けのたくさんある本でした。)著者としては、これは、自然数にかんする命題で、真か偽かは決まるようなものでありながら、真とも偽とも言えていないようなもの、という意味で出しておられるのは分かりましたが、私は少し別の興味も持ちました。この命題を、小さな偶数から確かめ、反例があったらとまるプログラムは書けることです。そういうのは書いてみました。当時のパソコンは遅かったですが(高校のころ書いたテトリスは遅くて実用的には遊べませんでした)、このようなプログラムが世界のどこかで走っているのだろうなあと思ったものです。

後日談を少し書きます。いまから9年前、2016年度に、私は勤めていた学校で1年間、情報科の実習助手をやらされました。(教員としてあまりにも使い物にならなかったからです。)その3学期のプログラミングの授業で、私はこのときのプログラムを再び書きました。中学のときの自分に、四十代にして追いついた気分がしました。当時の高校二年生でこのプログラムが書ける人はおらず、これよりずっと簡単な、与えられた数以下の素数をすべて出力するプログラムを書いた生徒さんは、京大に受かったそうです。そのまた後日談ですが、数年前、仕事を長く休み、就労移行支援事業所という、仕事を失った障害者のための施設で、(そこは事務員として最低限のワードやエクセルのスキルを学ぶところでしたが、)エクセルのマクロを覚えたとき、みたびこのプログラムを書きました。本日のアイキャッチ画像はそのコードです。走らせた様子を以下にはります。このあたり(${1000}$付近)だといかにも成り立ちそうな予想ではありますね。

この本は、高校に入ってからも読み返していたようです。中学のとき、どうしてもわからなかった複雑な記号の操作が、じつは数学的帰納法を表していることに気が付き、どうして中学のときはこれがわからなかったのだろう、と思った記憶があります。(高校2年のとき、紙で作った枠に、${n=k}$、${n=k+1}$、と書いて、黒板で一生懸命数学的帰納法の説明する先生を見て、先生、そこまでしなくても分かりますから、という思いで授業を聴いたことを思い出します。分かってしまうと当たり前に思えてきてしまう数学の不思議あるいは寂しさです。)ホフスタッターさんが、虚数単位の${i}$について、${i}$と${-i}$は区別がないことに触れ「われわれはずっと間違ったほうを${i}$と呼んできたのかもしれないのである!」と書いているのを読み「なるほどそうか!」と思った記憶もあります。証明が終わりに近づくとき、どう証明終わりになるか予測できても最後まで証明を読みたい気持ちを、知っている音楽がどう終わるか知っていても最後まで聴きたい気持ちになぞらえてあるのを読んでなるほどと思ったりしました。大学に入って教養で記号論理学を学び、中学のときに読んだこの本の、だいぶ初歩が出て来て「『ゲーデル、エッシャー、バッハ』ではないか」と思った記憶もあります。

こう書いて参りますと、中学生でゲーデルの不完全性定理の主張および証明の骨子を理解しているとはだいぶ早熟な気がしますが、私は数学基礎論のほうへ進みませんでした。トポロジーへ進んだわけです。それで間違っていませんでした。また、当時は現代のようなITの時代ではなく、プログラマという仕事もありませんでしたが、私はその方面へも行っていないわけです(現実的には私はだいぶパソコンおんちです)。振り返ってみて、やはりこの本はあくまで青少年向け科学読み物で、私が向いているのはトポロジーなのでした。高校のとき理系を選び、大学で数学科を選び、とても悩みながらも、トポロジーの道を選んで来たのは、数学が好きとか嫌いとかではなく、ひとえに自分の向いているほうの道を選んだのでした。博士課程1年で、大きな病気をして数学の道から脱落するまで、折々に自分の来た道を振り返り、そのたび、自分の来た道は間違いではなかった、と思ったものです。

この本は、後半は著者の専門である人工知能の話へ向かい、チューリングマシンなどが出て来ます。とうていこの本のすべては読めなかった私が、不明な話題へ向かうわけです。現代はAI(人工知能)の時代ですが、私は、いわゆるコンピュータ的な脳はしていないらしい、と気づく日々でもあります。最近、図書館での本の乱読のなかで、河東泰之「数学者の思案」という本(日本語で書かれたエッセイ集のような本)を読みました。河東先生は私が学生のころから東大数理の先生であられる非常に優秀な先生ですが、河東先生によりますと、数学者としての、論理・計算の能力と、新しいことを思いつく能力は、かなり相関がないそうです(たくさんの世界のすぐれた数学者、またすぐれた東大の学生を長いことご覧になっている、ご自身もすぐれた数学者である先生のご意見であるわけですが、もしかしたら数学者の先生の共通認識?)。どうも私は学生時代から自分が鈍だと感じています。現在、自分とは何者かという問いの前で考える毎日を送っています。少なくとも私の頭はチューリングマシンのようではないと感じる日々です。

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