磯野波平さん、ジャイアンのお母さんは、立派な人である(「論語」より)

論語に、
人知らずして慍(うら)みず、亦(ま)た君子ならずや。
という有名な句があります。これは「人がわかってくれないのを気にかけない、立派な人ですね」という意味だと思うのですが、私はこの「立派な人」という言葉の定義を、根本から間違っていたことに、最近、気づかされた次第です。私はこの論語の句を「人がわかってくれないのを気にかけないようにとやせ我慢して立派ぶる人は立派ですね」というような意味でずっととらえてきてしまったのです。ずっと「立派に振る舞う」「立派ぶる」のを「立派である」という意味だと錯覚してきたのです。それは違いました。「立派ぶる」のは、立派でないから立派ぶるのです。つまり、「立派ぶる」のは、立派ではありません。では、どういう人を立派(君子)であるというのか。以下に例を挙げます。
この「人がわかってくれなくても気にしない」という言葉と同時に「人からどう見られているか、気にせよ」という、一見、真逆ともとれる二種のアドバイスがあります。この二種の意味するところの違いを述べた、以下の素敵な「サザエさん」の漫画を思い出した次第です。記憶を頼りに引用します。
年末になりました。昔の紳士は、年末に床屋さんに行き、散髪をし、さっぱりして新年を迎えるのが礼儀とされていました(今もですね)。波平さんも、ある年の年末に床屋さんに行きました。ところが、みんな同じことを考えるので、年末の床屋さんは大忙しでした。波平さんを見た床屋さんは「手間のかからない人は後回し!」と言いました。波平さんは憤慨し、家に帰りました。
波平さんは、自分がハゲていることはまったく恥じていません。その意味では、人からどう見られるか、いい意味で気にしていないと言えます。しかし、新年の礼儀として、残った髪の毛を精一杯セットすることはエチケットだと認識しており、その意味では、ちゃんと人からどう見られるか、気にしている人なのです(※)。つまり、他者に不快な思いをさせないために、年末に散髪に行ったのです。そこで、そういう断り方をする床屋は現実にはいないでしょうが(現実にはいないから漫画として成立する)、波平さんは憤慨しています。自分を大切にできる人、それこそが立派であり、理不尽な目にあったとき、憤慨することのできる人は、立派な人です。(※ 波平さんの髪の毛は一本ではありません。両サイドにもけっこうあります。)
このように、磯野波平さんが、極めて立派な人(「君子」)であることに気づかされたのです。波平さんが上司であったなら、非常に立派な上司でしょう。間違ったことが嫌いな方である気がするので、おっかない上司かもしれませんが、いいことをしたらほめてくれるいい上司である気がします。おそらくフネさんも立派な人であり、波平さんとフネさんに育てられた3人の子供たち、サザエさん、カツオくん、ワカメちゃんも立派な人(あるいは立派な人の卵)である気がします。
ここで注意すべき点は、波平さんは「立派な人であろうとする人」というより「立派な人」である点です。私にとって、前者は「無理してでも立派ぶること」というような意味であり、私はそれがずっと「立派な人」という意味だと思って来てしまったわけです。同様に「親切ぶる人」と「親切な人」もまったく違います。親切ぶる人は、実は親切ではないから親切ぶるのです。真に親切な人を頼るべきです。
もう一人、例を挙げます。ジャイアンのお母さんです。
ジャイアンのお母さんは、立派な人であることに気づきました。それに伴って、そのお母さんから育てられている、ジャイアンも立派な息子(立派な人の卵)なのです。ジャイアンは、乱暴者として描かれていますが、スネ夫のような根性悪としては描かれていません。(スネ夫は根性悪であり、スネ夫の母親も、悪い意味でスネ夫を甘やかしています。)ジャイアンの歌のリサイタルははなはだ迷惑ですが、ジャイアンはあくまで自分は歌がうまいと認識しており、その歌を聴くとみんな嬉しいだろうと思ってリサイタルで歌っているのです。みんなを困らせるために歌っているのではありません。彼はまた妹思いでもあります。彼が、自分が歌がうまいと思っているのは、まだ彼が小学生であり、「経験」が少ないからです。彼がプロの歌手になろうと思う前には、自分がそれほど歌がうまくない(むしろ下手である)ことには気づくでしょう。「悪気はない人だけど迷惑」というのは、しばしば存在する人です。ジャイアンのお母さんがしきりにわが子を「たけし!たけし!」と叱るのも、息子が乱暴者であり、みんなに迷惑をかけていることをよく知っているからです。このように、ジャイアンのお母さんも立派な人として描かれていることに気づかされます。
ジャイアンのお母さんも「立派そうに振る舞う人」ではありません。「立派な人」です。
子曰く、敝(やぶ)れたる縕袍(うんぽう)を衣(き)、狐貉(こかく)を衣たる者と立ちて恥じざる者は、其れ由なるか。
という文も論語にありました。「先生が言われた、『破れた綿いれの上衣を着ながら、狐や貉(むじな)の毛皮を着た人と一しょにならんで恥ずかしがらないのは、まあ由(子路)だろうね。』」と岩波文庫の現代語訳にあります。私も現在、洗濯物の入った袋をさげ、安物のTシャツを着て、足を引きずりながらゆっくり町を歩いており、まさに自分が浮浪者にしか見えないことを自覚せざるを得ませんが、そのような自分を(子路のように)恥じず、それでも精一杯の身だしなみをしながら、波平さんのように自分を大切にして生きて行きたいものだと強く思わされます。
