のど自慢の鐘と五千人のパン

私の知っている人で、かつて家族がNHKのど自慢に出た人がいます。そのおばちゃんは、家族に黙って出演したそうで、家族は抜き打ちで、おばちゃんののど自慢出演を見たことになります。ある日曜日、NHKのど自慢を見ていたら、おばちゃんが出て来たわけです。家族一同は驚きました。おばちゃんは、合格の鐘を鳴らしたそうです。この、合格したというのが、事実であるかは分かりません。ただ、家族としては、「とても驚いた」というのが、「おばちゃんは合格した」という思い出になっているのだと思います。こういうのを記憶の塗り替えと言います。人を例に出してすみません。私もひんぱんにやっていると思います。

ある人が食べ物を食べているとします。これは、一人で食べてもおもしろいと言いますか、おいしいですが、誰かが来て、その人に食べ物を分けてもおもしろいです。人に食べ物を分けると、食べ物は減ります。ただ、おもしろさと言いますか、喜びは増えているということがあるわけです。

これは、お金だと増えません。お金は、増えている人がいると、必ず払っている人がいるため、みんなが増えることはないわけです。最近、ある党の公約で、みんなの年収を二百万アップするというポスターを見ました。それはあり得ないわけです。みんなが増えるということはないです。みんなの年収が二百万ずつ増えるころには、物価が上がっているでしょう。お金であれば、このように増えないわけですが、食べ物を分けたとき、喜びは増えるわけです。

イエス・キリストが五つのパンを分けたとき、五千人が満腹したという話が聖書に出て来ます。パンを分けたら、パンは減るわけです。しかし、イエスと一緒に食事をした思い出が、とてもいいものだったのでしょう。喜びが増えたと言うべきところで、パンが増えたと言った人がいたのです。それで、パンが増えた話になってしまった。

イエスは三十過ぎで処刑されていますから、イエスと食事をした人は、場合によってはイエスの死後、何十年も生きたでしょう。イエスと会ったことのある人は、会ったことのない人からしたら、非常にうらやましがられただろうと想像できます。それで、イエスと食事をしたことのある人は、さぞや自慢であっただろうと思います。私でさえ、学生時代に、イリーナ・メジューエワさん(ピアニスト)と、松岡みやびさん(ハーピスト)とお昼を食べたことがあるというのは、ひそかに自慢であるわけです。それで、イエスと食事をしたことのある人は自慢であるわけですが、そのイエスとの食事の思い出が、とてもいいものだとすると、記憶の塗り替えが起きて行くわけです。本来は五人でした食事が、どれくらいの人としたことになっているか。

4年前、星くず算数・数学教室の存在する少し前ですが、ある若い牧師が夜に、人のいない教会で、五人前のぎょうざを焼いてくれたことがあります。彼はなぜか、「五十人前のぎょうざを食べます!」と何度も「五人前」を「五十人前」と言い間違えました。私は、「聖書にある、五千人で食べたというのも言い間違えでしょう」と言いました。そんなところだろうと思います。「話を盛る」という表現があります。人を通して伝達しているうち、聖書に載るころには、五千人でパンを食べて、みんな満腹したことになっているのです。

それで、聖書というのは、昔のテレビみたいなものです。事実としての正確さよりも、話としてのおもしろさを優先して書いてあるものだとしますと、ますます、五つのパンを分けて、五千人で満腹した話として収録されるものだと思います。

私にも若いころ、仲間と一緒に食事をした思い出がいくつもあり、それらは非常に楽しかった思い出です。みんなで食べるとおいしいわけです。聖書に載っている五千人でパンを食べた話は、こういうふうに生まれたのではないかと思った次第です。

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