大らかな世相(旧約聖書の時代)と、せっぱつまった世相(新約聖書の時代、および現代)

これはまたおもに聖書についての話ですが、なるべく聖書に詳しくないかたにも楽しんでいただけるように書きたいと思います。
大ざっぱに、旧約聖書の時代のほうが大らかな世相であり、新約聖書の時代のほうが、せっぱつまった世相であるという、漠然とした認識が自分のなかにあることに気づかされて来ました。これは、旧約聖書に出て来る金持ちと、新約聖書に出て来る金持ちの違いに表れています。
旧約聖書に出て来る金持ちは、アブラハムやヨブに代表される、大らかで賢い人です。こういう人を「長者」と言うと思います。アブラハムは、旅人を盛大にもてなすような「いい人」に描かれています。いっぽうで、新約聖書に描かれる金持ちは「金持ちとラザロ」の話にせよ、「愚かな金持ち」の話にせよ、悪く描かれています。「貧しい人は幸いである」という言葉も出て来ます。新約聖書においては、金持ちが悪に描かれている、という特徴があります。
現代でも、悪徳業者が、人様のお役に立つという仕事の根本を置き去りにし、金額だけ稼いでいる現象をしばしば見ます。そういう悪徳業者は、原始時代であったら、とうに滅びていたような気もします。現代は少し世の中が複雑すぎて、お金の流れが見えにくくなり、それで悪徳業者が栄えるような気がします。しかし、聖書を思い出してみると、とくに新約聖書の時代は、二千年前であるとはいえ、充分に複雑な時代であり、悪徳業者が栄えていました。「貧しい人は幸いである」という言葉は、貧しい人は幸いではないという現実を踏まえており、すなわち、悪いことをして金額だけ稼ぐ人が目立つ時代だったと想像されるわけです。
日本の昔話は、室町時代のものを、ずっとのちの時代の人が採集し、本にまとめたものなのでしょうか。私の子供の時代は、絵本になっていました。また、時代劇と言われるものは、テレビが生まれた時代から見て遠い昔の、江戸時代くらいの話なのでしょうが、こういう、だいぶ前の時代の話をする理由が分かって来ました。現代の具体的な悪徳業者の名前を挙げるとヤバいので、仮に「越後屋」と言うのです。「越後屋、おぬしもワルよのう。ぐはははは!」と悪代官は言います。番組ではこういう悪徳業者は滅びますが、これと同様に、かちかち山のたぬきがどろぶねに乗って沈む話もそうです。さるかに合戦のサルとカニもそうです。具体的な何かを象徴的に表しているのでしょう。旧約聖書も、書かれた時代ですでにだいぶ昔の話であり、たとえば、現実世界に君臨する悪者を抽象化して「イゼベル」(悪女の代表)と言っているのでしょう。
先ほど少し触れた「金持ちとラザロ」の話では、ぜいたくに遊んで暮らしていた金持ちが、地獄(黄泉)に落ち、そこで、生前、貧しくて苦しんでいたラザロが、アブラハムに抱かれていて、その金持ちとアブラハムの対話になっています。これは、「現代の悪い金持ち」と「昔々の大らかな金持ち(長者)」の対話でありました。
(「金持ちとラザロ」にしても「愚かな金持ち」の話にしても、ルカによる福音書に出て来る話ですが、新約聖書全体に、金持ちへの嫌悪感がある点については、たとえばヤコブの手紙の5章に、金持ちを糾弾する話があり、またヨハネの黙示録も、クライマックスで、ぜいたくな金持ちが徹底的に滅ぶさまが描かれている通りです。ほかにもあるだろうと思います。)
現代は、閉塞感のある時代であると感じます。悪が栄えています。これは、聖書で言えば新約聖書の時代に通ずると感じるようになりました。世の中が複雑すぎて、お金の流れが見えなくなり、自分の心の内なる声の聞こえない人が、金額だけを稼ごうとする時代です。私はこういうことに気づけたことはありがたいと思っています。今後、どのような時代になるか分かりませんが、できるだけ自分の内なる心の声に聞き、目先のことに一喜一憂しない人生が送りたいです。
