数学は何の役に立つか

以下は、このたび高校の数学の教科書を改めて読み、とくに「三角比」(いわゆるサイン、コサイン)に関する記述を読んで、思ったことです。数学は何の役に立つか、という問いへのひとつの答えになると思います。

小学校で習った数学(多くの場合、算数と言いますが、数学の国際語である英語では、すべてmathematicsすなわち数学と言います。日本語で最初の6年間を算数と言うだけですので、この稿では算数もすべて数学と言うことにします)では、「サイン、コサイン」よりも、具体的なものが多かった気がします。小学3年で習う「重さ」は、習わねば生きるのに差し支える勉強でした。「時計の読み方」もです。重さで言えば、教科書ではまず、1円玉の重さとして1グラムの説明があります。教科書の巻末の付録で、紙でつくるてんびんがあり、それで、1円玉4枚と、えんぴつ1本がつりあえば、そのえんぴつは4グラムであることになります。それで、1000グラムは1キログラムであると習います。私は、1円玉が1000枚あるところはイメージできません。少し抽象的ですが、小学3年生は1000を知っています。(小学1年生で習う数は100を超えます。お風呂で100を数えたらすごく多かったような経験が小学1年生くらいであるかもしれませんが、小2で1000を超え、小3で重さを習う前に万を超えています。)それで、1キログラムの定義は分かりますが、実感を伴って理解するために、校庭の砂場へ行って、だいたい1キログラムの砂を袋に入れて手に持ちます。人間の体重も重さですし、重さは習わねばならない数学です。いつ、数学は抽象的になるのでしょうか。小学5年生の「約数」を習う場面で教科書が用意する例は、12本の花があって、かびんがいくつかあり、それぞれのかびんに同じ本数の花を入れることができる場合のかびんの数を考えることです。かびんが3つのとき、ひとつのかびんに4本ずつ花を入れて、12本の花があまることなくかびんに入るわけです。しかし、これは、仮にかびんが5つでも、ひとつのかびんに2本または3本の花を入れればよいのであって、なぜこのように考えるのか、意味を考えると不明です。このあたりから、具体的に考えることが意味をなさなくなる気もします。

このように教科書を見て参りますと、高校1年生の教科書で、サイン、コサインを習うころには、かなり抽象化が進んでおり、もはや、それそのものを見て、なるほどおもしろいねと言わない限りは、意味をなさない内容になってきているのではないかと思います。三角比の場合、教科書に少し載っている通り、測量の場面で使うことがあると思います(私は測量の経験がなく、実感をもって、三角比は測量で使う、と言うことができませんけれども)。それで、三角比は、測量という場面を除きますと、それそのものをおもしろいと思うようにしか理解のしようがない気もします。

その目で高校の教科書を見ていて思ったことがあるのです。この、サイン、コサインというものは、義務教育で習いません。文部科学省さんの考えでも、日本にいる人の全員が習わなくていい内容であるとの位置づけであると思われるわけです。確かにそうだと思います。三角比を、それそのものをおもしろいと思うような、つまり、これを知っていると心が豊かになり、人生が豊かになるように学ぶ人はごく一部であろうことに気づかされるのです。

世の中で具体的に役立つ仕事は、たとえば、作物を収穫して出荷する仕事であるとか、海で魚を捕る仕事、木を切る仕事、家を作る仕事などであるわけです。私はいま、ある福祉施設でこれを執筆していますが、この建物を作るにも、どれほどの材料が使われ、どれほどの人が働いたことでしょう。世の中のほとんどの仕事は、こういった、具体的に体を動かし、人の役に立つ仕事です。これに対して、作家や漫画家、作曲などの仕事は、人に楽しんでもらうための仕事であり、具体的に作物を出荷する仕事とは少し違います。数学もおおまかにこちらに入ると思われるのです。先ほど申しました、三角比を学んで人生が豊かになるようなのは、マンガを読んで心が豊かになるようなものです。(スポーツ選手もそういった仕事であり、観戦する人に楽しんでもらうだけの仕事であり、具体的に何かを生み出すような仕事とは違います。)世の中にいろいろの仕事がありますが、数学はそういった、人の役に立たない、稀なほうの仕事となると考えられるわけです。(科学技術の役に立つではないかという考えもあるかと思います。たったいま、私はパソコンでこの原稿を書いており、きっとこのパソコンであるとか、電気が流れていますが電気を起こす技術などに、サイン、コサインの考えは使われているのでしょう・・・と思いますが、ただ、技術がみんなに幸せをもたらしているかというのはよく考える必要があります。皆さんインターネットのなかった昭和を懐かしんでおられるのでしょう?果たして技術はみんなを幸せにしているか?)それで、数学はそれそのものをおもしろいと思うような、稀なほうの仕事であるとしますと、それにしては、現代の日本のほとんどの人が、中学を卒業して高校へ行かれるわけです。ここまで考え、じつは、中学を出てほとんどの人がすぐに働く世の中であれば、それが健全であったなと思うわけです。現代は、世の中がどこかおかしく、ほとんどの人が高校へ行き、そのまた多くの人が大学に行き、いまや大学院に行く人も少なくない時代となってしまいました。かなりの人が、向いていない数学という勉強をしているのではないか。ときどき聞きますのは、日本の伝統的な工芸などが、後継者不足であるという話です。そういうとき、その後継者になるべき人は、中学を出たらすぐに来てほしいと言われているそうですね。そのような特殊な技術を身に着けるには、高校を出てからでは遅く、大学を出てからならなお遅いからだと思います。その意味でも、ほんとうは、中学を出たらほとんどの人がすぐに働く世の中が健全だったのだと思うわけです。(そうすれば、人手不足でもないでしょうし、また、現代の多くの高校生の勉強の苦しみもなかったかもしれません。)

それで、当教室のホームページに書いてある「数学とは問題を解くものだと私は思っていません」ということへと話はつながっていきます。なぜ、世の中のほとんどの人が、数学とは問題を解くものだと認識しておられるのかが、ようやく少し私のなかで言葉になりつつあるのです。つまり、さきほどの三角比で言いますと、本来、それを学ぶべき人、サイン、コサインでも、微分積分でもそうですが、意味が分かって人生が豊かになるような人でない、多くの現代の高校生、そして、高校の先生もですが、なぜ数学を学ぶのかと言ったらそれは、テストで出るからであり、入試で出るので、いい仕事に就くため、やむを得ない形でやるわけです。(数学の意味がわからないことを批判的に書いているのではありません。わからないならわからないでいいと思うのですが、ただ、それでも多くの人が高校に行って数学を学ばねばならないおかしな世だ、という意味です。)それで、数学とは問題を解くものだ、という(私の感覚では誤った)考えが広く広まっている、と私は認識しています。それは先述の小学5年の「約数」でもそうです。その「花とかびんの例」ですと、先ほど述べましたように、「別にかびんが5つあってもいいではないか」ということになります。その通りであり、ひとつのかびんに同じ本数ずつ花を入れねばならない理由はないと思います。それで、世の人が考える数学を学ぶ動機付けですが、これは、「問題」とするのです。それは「12の約数はなんですか」というような抽象的な「問題」であれ、もう少し現実世界に近づけた「問題」にするのであれ(後者は受験用語で「文章題」と呼ばれると思います)、とにかく、クイズとして出題する形で、取り組む動機とするのです。(クイズとは問題を解くゲームであり「なんでそんなことを考えなければならないのですか」という質問を拒絶するものです。)幼少からこれに麻痺させられていると、問題を解くことこそが数学であると錯覚なさるようになるのです。これは、先生からしてそうであり、何世代にも及ぶ錯覚です。

${\sin^2 x+\cos^2 x=1}$は、あらゆる${x}$について成り立つこと(①とします)を習いますが、これは、三角比の定義および三平方の定理から従う性質です。これを鑑賞し、なるほどなあ、と、これを習うことが人生を豊かにするように学ぶと想定されているのが本来だと思います。それで、このあと、練習問題として、「${\sin x=\frac{1}{3}}$のとき、${\cos x}$を求めよ」というような問いが教科書に載っていますが(②とします)、それは、先述の性質をより深く味わうための練習問題であるわけです。・・・と思っていますが、よくよく教科書を観察しますと、後者の「クイズ」(②)を解くために、前者の性質(①)を習ったのだ、というふうにも教科書は読めるわけです。むしろ、そう思って教科書を読む高校生が大多数であり、高校の先生も大多数である気もするわけです。これが、数学は問題を解くもの、という、私には誤っていると感じられる観念の拡大再生産が行われている場面の典型を教科書に見た形となります。私はこれに気づいたとき、明治時代の三角比の教科書を見てみたくなりました。きっとこういう書き方はしていなかったのではなかろうかと思ったわけです。それはなかなか図書館にもなく、まだ見ることはできていませんが。現代は、文部科学省検定済教科書でも、このような本末転倒が(きっとあちこちに)あるのだと思った次第です。

(蛇足。よく「問題を解くだけでなく、本質を理解すべきである」という論も見受けられます。私のホームページもそのような論の一種に見えることに気づかされますが、しかし、そのような論の「本質を理解すべきである」というのは、「本質を理解することによって、より”うまく”問題を解く」ことが暗黙の目標とされていることがほとんどであると思われます。)

これで、数学は何の役に立つか、という多くの人の思っていると思われる問いへの、私の答えとします。それで、「数学は何の役に立つか」という問いは、そのものとしてとらえられることがあまりなく「勉強したくない、と言いたいのだ」というふうにとらえられることにも気づいて参りました。それでますます世は数学を勉強する理由を探すのだろうと思いますが、本日、書いて参りました通り、ほとんどの人にとって数学は役に立たず、技術の役に立つと言っても技術は人を幸せにせず、つまり、本当はこんなにたくさんの人が数学を学ばなければいいのです。必要な数学は、重さや道のりを測ること、時計の読み方などまでだろうと思います。(私自身は数少ない、高校、大学、大学院へ行って数学を学ぶべき人間であったと思います。確かに私は体を動かす多くの仕事は向いていません。皆さんに食べ物を運んでいただき、家も造ってもらって、ほそぼそと数学をやるべき人間であったのだろうと思います。)

ここまでで「数学は何の役に立つか」という論を一段落とします。ここから後日の付け足しです。

ここまで考えますと、なぜ、このようなおかしな世の中になっているのか、という疑問がわきます。それについて、以下に私の考えたことを書きます。以下は、必ずしもきちんと調べて書いているわけではないため、その点はご了承いただいた上でお読みいただけたらと思います。

おそらくは、明治時代くらいは、15歳くらいまでには学校を卒業し、仕事を開始するのが当たり前だった可能性が高い気がしています。「末は博士か大臣か」という言い方があったとよく聞きます。その世の中で、稀に、勉強が向いていて、博士になるような人は尊敬されたのだと思います。しかし、そうしますと、自分も博士になって尊敬されたいという人が出て来ます。名誉欲から博士になろうとする人が現れるわけです。そういう人も、一生懸命に勉強をして、ついに「博士」になるかもしれません。そういう人は「どうだ!博士になったぞ!」と自慢をするでしょう。そうしているうち、みんなで高校(戦後の言い方ですが)に行くようになったのではないかと思うのです(15歳以降も引き続き上級の学校へ行って勉強をする)。私が高校に行った時点で、かなりの人が、中学を出たらその先の学校へ進学していました。こうなりますと、先述の通り、必ずしも高校に行って先の勉強をするのがふさわしくない多数の人も、高校へ行って(そして大学、大学院に行って)勉強をせねばならなくなったのかもしれません。つまり、虚栄心のためにみんなで上級の学校へ行くようになったのではないかという考えに至るわけです。私の大学での級友は、全員が東大生だったわけです。彼らは、果たして勉強をしたくて東大に来たのか。それとも「どうだ!東大に受かったぞ!どうだ!」と生涯、自慢をして生きるために東大に入って来たのか。後者の人間がけっこうな割合でいた気がします。現代はもっとかもしれません。

この近辺でも、散歩をしていると、よく道路工事をしているところを通ります。道路工事をしておられる皆さんのおかげで、道路が通れるわけですが、もうひとつ、東大に来る大きな理由として、たとえば道路工事のような仕事をしたくない、そういう仕事を他者に押し付ける意味があるのではないかという気もいたします。道路工事というお仕事は、暑い日も、寒い日も、外で働かねばならないわけです。こういう仕事はしたくない。国土交通省に勤めてそういう人を束ねる仕事はしてもいいけど、手ずから道路工事のような仕事はしたくない。しかし、道路は使わせてもらう。このような姿勢は、物価の高騰と、盛大な環境破壊を招いていると思いますが、それらはすべて虚栄心から来るのかもしれません。(少なくとも物価の高騰は、「働きたくない」という気持ちの表れだと言うことはできると思います。お金とは、「顔の描いてある紙」でしかないわけですが、仕事をしないで、それの取り合いになっているという現象が、物価の高騰に現れていると感じるわけです。これはおそらく日本だけにとどまらない話だと感じています。)

この話はここまでで、それで、われわれは(私は)どう生きればよいのか、という話になります。たとえば、現代の学生であれば、みんなが高校に行く限り、自分も行かざるを得ず、また、仕事をするサラリーマンであっても、仕事をやめることはできず、環境破壊をとめることもできません。それについては、私は現状で以下のように考えています。隣町のあるファーストフードのチェーン店に、個性的かつ手厚い接客をするおばあさんがいます。先日、そのファーストフード店をおとずれましたら、そのおばあさんはいつものカウンターにいません。その日から、そのお店にも、注文用のタッチパネルが導入され、そのおばあさんの役割はなくなったのです。そのファーストフードのチェーン店の上層部があまり賢くないのかもしれません。そのおばあさんのいる店では、明らかにそのおばあさんが接客をしているから来ていた客は多いはずで、そのおばあさんが大きな経済効果(という語はあまり好きではありませんが)を生んでいたことは明らかだったからです。大きいチェーン店だからしようがない面はあるでしょうが、その店の客も、同僚の皆さんも、そのおばあさん本人も、残念であったことと思います。そのおばあさんは、いまや、タッチパネルから出る紙を見て、会計をするだけの役割となりましたが、しかし、その日、そのおばあさんは、明らかにいつも以上に手厚い接客を心がけておられることは分かったのです。ここから得られる教訓があります。どのような環境にあっても、いかにそのチェーン店の上層部が賢くないと思っても、たった今、できることをして生きるよりないのです。仮に、戦争が始まって、自分の息子を兵隊にとられようとも、生きるよりないです。人生は一生に一回しかないからです。私も、このような世の中にあって、自分の人生を、精一杯、生きるしかないと思っています。これで、先ほどの段落からの、「後日の付け足し」の部分を終わります。

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