フルートのエマニュエル・パユを聴いた(1998年11月16日、1999年7月9日)

これは私がときどき書くクラシック音楽オタク記事です。それでもよろしければどうぞお付き合いくださいね。
フルートのエマニュエル・パユを生で聴いたことが、2度、あります。いずれも学生時代で、1998年11月16日、学部4年生のときと、1999年7月9日、大学院修士課程1年のときです。四半世紀以上前の話ですね。
エマニュエル・パユは、説明の必要のないほど有名なフルーティストかもしれませんが、当時からベルリン・フィルの首席フルート奏者でした。1970年生まれですので、当時、28歳、29歳であったことになります。私がその5歳(6歳)年下です。いまもパユはベルリン・フィルの首席奏者として活躍中です。
1998年は紀尾井ホールにおけるリサイタル、1999年は「ベルリン・フィルの14人」という出し物で聴きました。98年の話からいたしますね。
東大オケにいたころから、うまいということで、みんなが注目していたパユ。一度、生で聴きたいと思っていました。私は先述の通り学部4年で、院試(大学院入試)を受けています。院試は98年8月31日から一週間、行なわれています。チケットを買ったのは、院試を受けて合格発表の前、緊張感から開放されたタイミングになります。9月8日、新宿のムラマツで、ラ・プティト・バンドのチケットを買おうとして、売り切れていて買えなかったことが日記に記されています。バルトルド・クイケンのトラヴェルソ(昔のフルート)を聴きたかったのですね。それで、翌日、紀尾井ホールに行き、やはりラ・プティト・バンド(バルトルド・クイケン)のチケットは買えなかったようです。バルトルド・クイケンは、ついに聴くことのなかった演奏家になります。それで、この日、1枚だけ残っていた11月16日のパユのリサイタルのチケットを買ったという次第になります。
院試の合格発表は9月14日でした。無事に合格しました。
さて、11月16日の日記ですが、このころの日記は非常に長いです。院試に合格したら、指導教官の先生を決めねばなりません。迫って来る大学院生活におびえており、日記が悩みに満ちています。いろいろな先生と面談をするタイミングの記事です。ある東大数理の幾何の先生の言葉が記されています。「”D(博士課程)行きたいって言ったって、高校までバスケやってて、いきなり全米リーグの選手にしてくれったって無理だ”」。このような言葉を聞いておじけていたのです。いまならわかりますけどね。「東大理学部数学科」というと、世間では「賢い」という評価になるのかもしれませんが、しょせんは「高校時代、ちょっと勉強ができた」という水準です。その先生が、学部生と、大学院博士課程の学生の差を、高校でバスケやっていましたというのと、全米リーグ(というものがあるのかどうかわからないということはこの日の日記にも書いてありますが)の選手になるくらいの差がある、というのは実感としてわかります。ただし、このときの私は、確かに「高校でバスケやっていました」のところにいましたので、こういう言葉を聞いてびびっていたわけです。(実際には私は博士課程を修了することができず、数学者にはなれていませんが。)そんな日でした。そして、四谷の紀尾井ホールに行きました。紀尾井ホールは上智大学の近くにあります。
プログラムは以下でした。
デュティユ フルートとピアノのためのソナチネ
フォーレ ヴァイオリン・ソナタ第1番(フルート版)
休憩
プーランク フルート・ソナタ
サンカン フルートとピアノのためのソナチネ
ジョリヴェ リノスの歌
ボルヌ カルメン幻想曲
アンコール
フランク ヴァイオリン・ソナタより第4楽章
バッハ シチリアーノ
ボルン フルート組曲Ⅴ
エマニュエル・パユ フルート
エリック・ル・サージュ ピアノ
買ったとき、最後の1枚であったチケットですが、席はよくありませんでした。演奏者の後ろの席だったのです。前半は手前にピアノ、向こうにフルートで、とても聴きにくかったので、後半、席を移動して、パユの前に来ました。
日記から引用します。
「とにかくすごかった!うまい!また、完璧を期すよりは、一期一会の勢いというか、流れを大切にするようで、また、もちろん天才のほかに、相当の(おそらく余人の想像も及びもつかぬようなすごい)努力の上に成り立っているな、ということをつぶさに感じさせた」。
とにかく圧倒されたのです。先述の通り、パユは当時、28歳、私が22歳くらいで院試合格からすぐくらいです。
少し思い出すのは、パユとピアノのル・サージュで、けっこう身長差があったということで、ル・サージュのほうがずっと背が高いのです。並んでおじぎをするときにそれははっきりしたコントラストになっていました。(前にゴールウェイのリサイタルを98年5月5日に聴いた話もブログにしましたが、そのときも、フルートのゴールウェイと、ピアノのモルの身長差ははっきりしていました。モルはこの記事でまた登場します。)
もう少し、日記を引用します。「それにしても、自由自在、うまい。ピアノがまた、ものすごくうまく、表情豊かで、すばらしかった」。よほど感激した様子が日記からうかがえます。東大オケのフルートの後輩にも会っています。彼はパートリーダーの会を休んでこちらに来たようでした。
この日のプログラムは、ご覧の通り、フランスのフルート作品で構成されています。一度、ドップラーのハンガリー田園幻想曲がプログラム案にあったときもあったと思いますが、最終的にこのプログラムになったようです。かなり盛りだくさんの、フルートの名曲がいっぱい聴けるプログラムになりました。
アンコールの最後の曲(ボルンのフルート組曲Ⅴから)だけ、急にわからない曲です。この記事を書くにあたり、ムラマツ楽器さんに電話で聞いてみましたが、およそ有名でない曲のようです。ボルヌといえば、この日のプログラムの最後の、カルメン幻想曲の作曲者として有名ですが、その人ではないようです。記憶によれば、ぜんぜんわからない現代的な曲で、ようするに、「皆さん、こんな曲は知らないでしょう」という曲を最後にやって終わったリサイタルだった、ということになるでしょう。
さて、このおよそ1年後、再びパユを聴く機会がありました。それが99年の7月9日です。これは「ベルリン・フィルの14人」という出し物で、招待券で行きました。私のオーケストラの親友が、大病でしばらくダウンしていたのです。私は何度も彼を見舞いました。このときは、彼が大病から復帰したのち、彼のお母さんが、われわれふたりに招待券をくださったのです。私の楽器がフルートであることから、この公演の招待券をくださったのでしょう。とても嬉しかったです。私がベルリン・フィルを生で聴いた唯一の機会となりました。
このころ、私は修士課程の1年生、彼はストレートで行っているので修士課程の2年生だったと思います。その日は、セミナーなどやったのち、会場である上野の東京文化会館に行きました。彼といっしょに、かなりいい席で、「ベルリン・フィルの14人」を聴きました。弦楽合奏にフルート(パユ)を加えた編成で、いろいろな名曲が聴けました。第1ヴァイオリン4人+第2ヴァイオリン3人+ヴィオラ2人+チェロ2人+コントラバス1人と、フルート(パユ)と、鍵盤楽器のフィリップ・モルで、14人であるわけでした。
プログラムは以下です。
アルビノーニ=ジャゾット アダージョ
グリーグ ホルベルク組曲より「アリア」
グルック 精霊の踊り
バッハ 管弦楽組曲第2番(抜粋)
休憩
バーバー 弦楽のためのアダージョ
バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番(全曲)
アンコール
ヴィヴァルディ フルート協奏曲「海の嵐」第3楽章
グリーグ ホルベルク組曲より第1曲
日記には「ものすごくうまく、弦など、実にすばらしかった。パユもやはりすごかった」と書いてあります。親友と聴けたのも嬉しかったです。
ひとつ、覚えているのは、グルックの精霊の踊りで、コンサートマスターの人の弓の動きだけ、他の人と異なっている点でした。この作品は、本来、フルートの2番が必要になります。コンサートマスターの人は、フルート2番のパート譜を弾いているのだ、ということがわかりますね。
バッハのブランデンブルク協奏曲第5番という曲は、私は高校3年のときに文化祭でやりました(第1楽章だけ)。これは、私の唯一の協奏曲のソリスト経験となっています。この曲をプロの演奏で生で聴いた唯一の経験となると思います。贅沢な話ですね。
この演奏会のあとは、その親友とごはんを食べ、彼の家に行っています。ビールなどいただきました。深夜4時まで起きていて、いろいろしゃべっていました。泊まっていったようです。そのころの私は、睡眠障害がありませんでした。
というわけで、若いころ、フルートのエマニュエル・パユを、生で2回、聴いた話でした。それではまた!
(最後に、98年5月5日に、ゴールウェイのコンサートを聴いたブログ記事のリンクをはりますね。)
