当教室での授業の様子をまた公開いたしますね。ご本人様および保護者のかたの許可は得ております。
小学校高学年の生徒さんです。半年以上前にご入門になりました。「自分の頭で考える」タイプの生徒さんであることは、開始してわりとすぐにわかりました。
2つ、エピソードを出しますね。
1つは、小学6年生の「対称な図形」を教科書に沿って学んでいたときのことです。教科書には「線対称な図形の性質」として
①対応する2つの点を結ぶ直線は、対称の軸と垂直に交わります
②その交わる点から、対応する2つの点までの長さは等しくなっています
という2つの性質が書いてありました。
この2つの性質は、教科書では、いくつか実験してみて納得するように書いてありましたが、私は、その生徒さんなら、自力で理由が言えるのではないかと思い、①と②の成り立つ理由をおたずねしました。私は、②のほうがやさしいだろうと思いました。しかし、その生徒さんは、①のほうはわかるとおっしゃり、①の理由をきちんと述べられました。すごいです。なかなかこれが理由まで含めて言える小学生さんは少ないだろうと思います。
後者の②もお考えになりましたが、考えがどつぼにはまっておいでのようでした。ついに私が正解を申しますと「あ」とおっしゃいました。わかったのです。「わかったふり」ではなく、きちんと「わかった」という生徒さんでした。
もうひとつのエピソードは最近のものです。教科書に、夏休みの「脱線」のようなものがありました。私も脱線し「答えから作られている問題の答えをすばやく出すことを学問的だと思う錯覚」についてお話ししました。具体的には、高校時代に数学が好きで、大学で理学部数学科を選び、大学入学と同時に落ちこぼれる学生さんの多さ、の話です。これは数学に限らず、たとえば物理でも、高校のパズルのような物理の問題を解くのが好きで好きで、大学は理学部物理学科を選び、大学入学と同時に物理学は学問となり、とたんについていけなくなるというようなことがひんぱんにあるわけです。
その小学生の生徒さんは「難しさのレベルが異なる」と言いかけて言い直し「難しさのベクトルが異なる」とおっしゃいました。この「ベクトル」という語の使い方が極めて適切で驚きました。「難しさのレベルが異なる」と言いますと、難しさというものが数値化されて「難易度」というものになり、高校のパズルのような物理より、大学の学問的な物理学のほうが「ずっと難しい」という意味になりますが、これは難しさの質が違うのです。「高校のパズルのような物理の問題の難しさ」と「大学以降の物理の学問的な難しさ」は、どちらが難しいか、単純に言えるものではないというその生徒さんの認識が見えました。そして、このように、数値化できない(つまり数で表せない)ものの代表が「ベクトル」なのです。その生徒さんはまだ小学生ですから、ベクトルという概念はご存じないはずですが、直観的にベクトルという概念の本質をつかんでおられるようなお答えで、私は驚いたわけです。たまたまですかね?
この生徒さんは、ほかに塾などに行っておられる様子はなく、中学受験があるわけでもなく、とくに計算が速くて正確とかいうような感じではありません。(よく計算を間違っておいでです。私も一緒になって間違っておりますが…。)この生徒さんの「賢さ」はまさに多くの「世間で賢いと言われる」小学生さんと「レベルが違うのではなくベクトルが違う」という感じです。
しかし、現代のような、AIの発達したような社会において、この生徒さんのような「自分の頭で考える」ような人材は、これからますます重要になると直観しています。長期的にみて、この生徒さんのようなかたの時代がくると信じられるのです。
ときどきこういう生徒さんに出会えるのは、星くず算数・数学教室をやっていてよかったな、と思わされるときです。引き続き、背伸びしすぎず、この生徒さんとは、小学校の算数を学んで参りたいと思います。