「あつかましさ」はしばしば無自覚的
比較的最近、ある友人の出演するピアノ発表会に行ってきました。そのピアノの先生はクリスチャンであり、そのピアノ発表会は、その先生の通う教会の礼拝堂で行われました。はじめて入る教会でしたが、なかなか立派な礼拝堂でした。ピアノの先生は「開演前にこの教会の牧師先生からお話があります」と言われました。そして、その教会の牧師さんが出てきて、以下のような話をなさいました。この礼拝堂は、最近、震度5の地震で倒壊する恐れがあること。それがわかってから、その教会では、この礼拝堂を使っていないこと。この日は特別に、ピアノ発表会のために礼拝堂を貸し出すことにしたこと。万一、発表会の最中に地震が起きたときは、どの方向に逃げるべきか。数年前に、ブロック塀が倒れて亡くなった女の子のお話も出ました。この牧師さんのお話は、5分ほど続きました。すっかり場の雰囲気が深刻になってしまいました。ピアノの先生が口を開きました。「私はこの教会の信者です。必ず神様が守ってくださると信じています。皆さんで祈りましょう」。そういって、会場の皆さんと2、3秒、黙祷をしました。それで、発表会は開演となりました。
個人演奏の部があり、連弾の部がありました。私の友人も演奏しました。先生の演奏もありました。最後に皆さんで歌など歌って、出演者は記念写真を撮り、流れ解散となりました。そこで、私はあることに気づきました。誰も神様にお礼を言っていないではないか!
確かに、神様は、その発表会のあいだ、地震を起こさないでくれたのです。(この記事を書いている2022年9月29日現在、まだ地震は起きていません。ただし、この記事は予約投稿されますが、いつ地震が起きるかは誰にもわかりませんけどね。)私たちの願いは聞かれたのです。しかし、誰も「神様ありがとうございました」と言いませんでした。そもそも開演前にそんな「お祈り」があったことすら、ほとんどの人は忘れているのではないか。それで、人は大地震などあると「神はどこにいるのか」と言ったりするわけです。神様はどう思っておられるのかなあ。
「あつかましさ」というのは、しばしば無自覚的だと思います。「あの人、迷惑だけど、それに自分で気が付いていないよなあ」と思うことはしばしばではないでしょうか。ということは、私も知らず知らずのうちにそうなっているということです。
新約聖書に以下のような話が出て来ます(ルカによる福音書17章11節以下)。10人の「規定の病」(あるいは「重い皮膚病」「ツァラアト」)を患った人が遠くからイエスに助けを求めます。イエスは「行って、祭司たちに体を見せなさい」と言います。10人は、行く途中に癒やされました。このうち、お礼を言いに戻ってきた人は1人です。教会で語られる説教のほとんどは、この「感謝を述べた1人」をほめたたえる内容になっています。しかし、私は「お礼を言わなかった9人」に着目したいと思います。この話は「お礼を言わなかったらばちが当たって再び病気に戻ってしまった」という話ではないわけです。神様って、人間の願いというのは、その程度のものであることをよくご存知なのだと思うのですが、いかがでしょうか。
かくいう私も、いまだに神様にお礼は言っていません。神様あつかましくてごめんね。