「ぐち」の効用

さきほど、「子供の前でぐちを言わないようにしましょう」というインターネットの記事が目に入りました。確かに、ぐちはあまり言ってはいけないような気がします。しかし、人類は昔からぐちを言って来たのです。以下に(土居健郎によりますが)聖書に出てくるいくつかの「ぐち」を見て、その「効用」について考えたいと思います。

まず、新約聖書ルカによる福音書10章の、マルタとマリアという姉妹の話です。イエスがマルタとマリアの家に迎えられます。マリアはイエスの足元に座ってイエスの話を聞くだけ。マルタはおもてなしで大忙しです。マルタはイエスに次のように言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。不公平な目に遭ったマルタは、イエスにぐちを言っているわけです。ここで「マルタは嫉妬のあまりマリアを殺した」とかいう話にはなっていません。マルタは、ここでイエスにぐちを言うことによって、だいぶ気がすんでいるとも取れます。

つぎに、同じルカによる福音書の15章の「放蕩息子(ほうとうむすこ)」のたとえを見ます。イエスのたとえ話です。兄弟がいました。あるとき、弟は父親から財産の分け前をもらい、何日もたたないうちに弟はそれをすべて金に換えて、遠い国で放蕩の限りを尽くすことになります。すべて金を使い果たしたころ、その地で飢饉が起き、弟は食べる物にも困り始めました。かなり困窮した弟は、我に返り、父親にゆるしを乞うべく、父親のところに帰ります。父親はその弟を大歓迎し、祝宴を始めます。

じつは、兄の出番はこのあとなのです。放蕩息子である弟が帰ったので大歓迎して祝宴をする父親に、兄はつぎのように文句を言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会するために、子山羊一匹くれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。お父さんに盛大に「ぐち」を言っていますね。まあこれだけ不公平な目に遭ったから当然かもしれません。しかし、どうも私には、このお兄さん、これを言うことで、だいぶスッキリした気がするのですよね。このあと、このお兄さんは、その弟の歓迎パーティーに加わったような気もするのですが、いかがでしょうか。

3番目の例です。これも、理不尽な目に遭う兄弟の話です。旧約聖書の創世記4章です。カインとアベルという兄弟が出て来ます。カインもアベルも神様にささげものをします。しかし、なぜか神はアベルのささげものには目をとめて、カインのささげものには目をとめないのです。ここで、カインが誰かにぐちを言っている場面は描かれません。そして、カインはアベルを殺してしまうのです!「カインが誰かにぐちを言えなかった」ことと「カインはアベルを殺した」ことに因果関係があるのかどうかはわかりません。しかし、せめてカインが「なんでアベルばっかり。ずるいよー」と誰かに(それこそ神に)言えていたら、だいぶ結果が違ったようにも思えます。

最後に、十字架にかかったイエス・キリストの最後の言葉を紹介します。新約聖書マルコによる福音書15章から引用します。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これは、神への「ぐち」であるとも言えます。聞いてもらえていないぐちですが。こうして亡くなったイエスを見た百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言っているのですが、この、他人はたくさん救ったのに自分で自分を救えない、最後は神にぐちを言って死んでいくイエスを百人隊長が「神の子だった」と評するのは、マルコ福音書のクライマックスのようにも思えます。

確かに、ぐちは迷惑です。ぐちを聞きたい人はいないのに、わざわざ人の時間を割いて、聞きたくもないものを聞かせるのがぐちですから。しかし、ぐちを言わない人もまたいないのです。上に見たマルタにせよ放蕩息子の兄にせよ、自分がぐちを言っていることには無自覚でしょう。ぐちは無自覚に出るものです。私もいつのまにかぐちを言っていることはしばしばです。

不平不満、ぐち、文句を言う。これらは人間にとって自然な現象です。これらを封じないようにしましょう。人のぐちも聞きましょう。お互いにぐちを言い合って、日々の大変な生活をどうにか乗り切っていけたら、と願います。

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