「論理とは憶測である」?

中学のとき、数学の授業で「△ABCと△DEFが合同であることを証明せよ」という問いをたくさん解かされた、という記憶をお持ちのかたは多い気がいたします。私も30年以上前、中学のときにやりました。「証明」とは「理由を説明すること」です。世の中で「論理」と言われているものです。△ABCと△DEFが合同であることの理由を述べるわけです。「これはなかなかおもしろいけど、三角形の合同条件そのものは証明しないんだね」と思いながら、当時の私はそれらの問いに取り組んでいたと思います。

世の中で「三段論法」と言われるものがあります。「あなたがたは地の塩である」(聖書より)および「塩は水に溶ける」したがって「あなたがたは水に溶ける」といったものです(これは野崎昭弘「詭弁論理学」に載っていた例を借りました。記憶によっています)。これは演繹的な論理です。このほかに、帰納的な論理があります。私はこのごろ「論理とは憶測である」と思うようになりました。

私がときどき言っている「聖書とはあつかましさを奨励する書ではないか」という命題も、憶測でしかありません。ただ、そう聖書を理解すると、筋が通るというだけです。

そんなの論理ではないですって?

しかし、たとえば万有引力の法則にしても、あれは膨大な観測データから、帰納的に見出した法則でしょう?物体と物体のあいだに働く引力は、距離の2乗に反比例するという。「そう考えると筋が通る」という「憶測」ですよね?これに先立つケプラーの法則にしても、あるいは、進化論にしても、こういう論理は多いと思います。

(学生時代に物理を専門としていた人から聞きました。「モデル」というそうですね。「このように説明すると、今のところうまくいく」というものだそうですね。)

数週間前、ある生徒さんと、授業で話題になりました。規則性と根拠について。その生徒さんはお仕事上、プログラムを書かれるのですが、規則性を見出すのは重要で、しかし根拠も見出しておかないとあとで大変な目を見る、というようなことをおっしゃっていたと思います。その生徒さんと学んだ小学4年生の算数の教科書で「変わり方」という章があり、教科書は、根拠を明示せず、規則性を見出すような記述がしてあったところから、しばしこういった話となったわけです。

つぎのような例があります。インターネットで見ました。「${1,2,4,8,16}$」の次に来る数(6番目の数)はなにか?規則性からすると、${1}$からスタートして、次の数は倍になっているように思える。そこで、次の6番目の数を「${32}$」と推測するわけです。これを書いていた人は、ここで、6番目の数が「${32}$」にならない例を2つほど挙げておられました。6番目の数が「${31}$」や「${30}$」になる例です。私は「${n}$個の3次元空間によって、4次元の空間が、最大で、${a_n}$個の部分に分割されるとしますと、${\{a_n\}}$という数列は、第${0}$項から順に、${1,2,4,8,16,31,\cdots}$となりますね」とコメントしたのですが、どなたも反応なさいませんでした。4次元は見えないかたが多いということでしょう。でも、私の言いたいことは、${1,2,4,8,16}$の次が、${32}$でも${31}$でもいいのだということです。論理とは憶測だからです。

私のなかで、帰納的な論理はいろいろあります。「自慢したりひとをバカにしたりしない人は、おそらく自分のなかで『自分はよい人間だ』という観念を持っており、それゆえひとを見下す必要がないのであろう。それはおそらく幼少のころ、おもに親から『お前はよい子』と刷り込まれて育ったかたなのだろう」というようなこともそれです。これも憶測ですが、当たっていそうな気がします。自慢したりひとをバカにしたりせずにはいられない人って、幼少のころに「お前はダメだ」とおもに親から刷り込まれた人ではないのかと。

以上です。論理とは憶測である。(!?)

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