「根元十分、先っぽ必要」は受験テクニックではなかった

私が「必要条件、十分条件、必要十分条件」について学んだのは高校1年生のとき、1991年のことではないかと思います。先生は、必要条件や十分条件のお話をされたあと「左必要、右十分」とおっしゃいました。「${p\Rightarrow q}$」で、矢印が右を向いていれば「${p}$は${q}$であるための十分条件である」という問いに答えるための受験テクニックであるようで、あたかもあまりよいことを教えるわけではない感じでお教えになりました。
私はそのあと大学に行き、専門が数学となりました。大学院の1年のときに母校である高校に教育実習に行きました。1999年のことです。たまたま高校1年生の「集合と命題」が当たりました。私はそれまでに、数学の国際語は英語であること、多くの日本語の数学用語は英語の直訳であること、そして、「必要条件」「十分条件」の「必要」「十分」という言葉は、稀に見る、日常用語の「必要」「十分」と乖離していない数学用語であることを過度に強調する教案(授業の案)を書いてしまい、その母校での指導教官であったある数学の先生から、あまりうれしいような反応は受けませんでした。(そのころ私は東大の院生であり、母校に教育実習に来る現役東大生、東大院生はめったにいず、珍しがられたものです。)
同じ1999年、修士課程1年のときのことです。私はある地方で行われたトポロジーの研究集会(学会)に参加しました。夏であり、その地を台風が襲いました。世話人の先生はセミナー室のホワイトボードに「あした台風が来たらセミナーは中止です」と書かれたうえで「必要十分条件」と書かれました。その場にいる人は皆、数学者です(私のような学生もそう呼ぶなら)。かつ、そのころは携帯電話等を持っている人が少数派であった時代であり、このような連絡がなされたのです。この連絡は「あした台風が来たらセミナーは中止」ということと「あした台風が来なければセミナーは予定通り開催」の2種の意味を持っていました。私はようやく実感をもって「必要十分条件」の意味を悟りました。必要十分条件とは、同じことをより簡単な言いかたをしたい、という願望に基づく発想だったのです。
のちに2001年に私は取り返しのつかない統合失調症の症状を出し、数学者になることができず、失意のうちに2006年にある地で中高の教員になりましたが、その中高で「根元十分、先っぽ必要」ということを黒板にお書きになる先生がおられました。「${p \Rightarrow q}$」という命題が真であるなら、矢印の根元である${q}$が十分条件、先っぽである${p}$が必要条件である、という「受験テクニック」であるかのようでした。私も自分が高校生であるときに習った「左必要、右十分」と同じようなものを感じていました。しかし、2024年に入って、ここを改めてご一緒に学ぶ生徒さんがおられて教科書を読み直したときに、これは新しい解釈に読めました。
教科書には以下のように書かれているのです。「2つの条件${p,q}$について、命題${p\Rightarrow q}$が真であるとき、${p}$は${q}$であるための十分条件である、${q}$は${p}$であるための必要条件であるという。命題${p\Rightarrow q}$が真であるとき、${q}$を満たすためには${p}$を満たしていれば十分であり、${p}$を満たすためには${q}$を満たしている必要がある」。すなわち、「根元十分、先っぽ必要」というのは、受験テクニックであるどころか、もろに教科書に載っている「十分条件」「必要条件」の定義なのでした!教科書ではそのあとに、その「必要」とか「十分」という日本語が理不尽ではないことが記されているのでした。私は長い勘違いから解放された気がしました。「必要」とか「十分」とかいう言葉を日常用語から説明しようとしていた修士課程1年のときの教育実習における私の態度は確かに不適切だったのかもしれません。
このように、受験テクニックだと思われているもので、じつは非常に学問的であるものは、ほかにもあるのかもしれません。私がはじめて必要十分条件を習った15歳くらいから、3倍以上の年齢となり、改めて根本から意味が変わる経験をしています。48歳になってようやく本来の意味がわかったものも多いわけです。私はいま、人生のおもしろさを実感しているところです。どんな映画よりも、どんなマンガよりも、私はいま、自分の人生がおもしろいです!
(記事に出てくる、最近、ご一緒に「必要条件」「十分条件」を学ばれた生徒さんには、ブログでのエピソード使用許可をいただいています。)
