暗黙の前提

世の中にはいろいろな暗黙の前提があります。最近、気が付いたなかからいくつかご紹介いたします。(本日は2023年5月29日です。このブログは予約投稿されています。)

先週の金曜日、薬局で「高級クリームパン」というものを買いました。買ってすぐに気が付いたことは、高級クリームパンは高級ではないことです。高級なものに「高級」とは決して書いてありません。ほかに思いつくのは「高級しもつかれ」(しもつかれは栃木県の郷土料理です)とか「高級スプーン」(アイスの木のスプーンにときどきこう書いてあります)などですね。

先々週、あるキリスト教雑誌の校正をしていたときに気がついたことがあります。新約聖書のパウロの手紙で「フィリピの信徒への手紙」というものがあります。パウロが獄中で書いたと言われています。また、この手紙にはしきりと「喜びなさい、喜びなさい」と書いてあります。「喜びの手紙」と言われています。ここまでは多くの人の言うことです。私の気付いたこととは以下です。すなわち、なぜ獄中の手紙が喜びの手紙なのか。これはつまり、パウロはとても喜べる状況になかったことを意味するのであろうと。手紙に「喜び、喜び」と書く人は、とても喜べる状況にない人なのであろうと、そのことに気が付いたのです。暗黙の前提がありました。

高級クリームパンを買った翌日は、私は友人のギタリストのリサイタルを聴くために、授業を入れませんでした。リサイタルは夕方には終わりました。夜も授業がないわけです。久しぶりにリビングで家族とテレビを見ました。どっきり番組をやっていました。どっきり番組はあまり好きではないのですが、あまり好きではないものを見るのもたまにはいいことです。まず、ジェットコースターから降りようとするとシートベルトが外れないというどっきりをやっていました。これは、われわれは暗黙のうちに「ゆだねて」いるわけです。ジェットコースターが到着したら、当然、シートベルトは外れると思っている。これが外れないから「どっきり」であるわけです。あした、私の住んでいる土地を大地震が襲うかもしれません。起きないと暗黙のうちに思っていますが、起きたらこれは神様の仕掛けたどっきりであるわけです。

どっきり番組を見ていてつくづく思い出されたのが、旧約聖書の創世記のヤコブとエサウの物語です。それ以上に、その少しあとにあるヨセフの物語でしょうか。典型的な話をひとつだけ紹介いたしますね。エジプトの宰相となったヨセフのところへ、兄たちが穀物を2回目に買いに来たとき。末の弟であるベニヤミンの袋の口へ、ヨセフは銀の杯を入れさせます。そして、翌朝、追いかけさせて「盗んだだろう」と言わせます。兄たち一行は、決して盗んでなどいませんと言うのですが、袋をあけてみると、ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかった…。という話ですが、これは典型的などっきりではないですか。それに気づくと、以下のようなことも思うわけです。

つまり、昔の人は、こういう話を、安息日ごとに会堂で聞いていたはず。おそらく多くの人は字が読めなかったかもしれませんので、字の読める人が安息日ごとに会堂で読み上げるわけですね。すると、皆さん先ほどのような話は、あたかも現代の人がテレビでどっきり番組を見るような感覚だったのではないかと。つまり、「旧約聖書というものは昔の人のテレビだったのではないか」という説が私のなかで急浮上してきたのです。そう思うといろいろ見えて来ます。士師記などというのはヒーローものかもしれません。強いヒーローがつぎつぎと出てきて敵をばったばったと倒す話…。エステル記もかなりエンターテインメント性の高い書物です。「エステルは答えた。『その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます。』ハマンは王と王妃の前で恐れおののいた」(旧約聖書エステル記7章6節)。ここなど「痛快!」と思って聞くところではないでしょうか。ダニエル書もかなりエンターテインメント性が高いと言えそうです。ライオンの穴に入れられても平気なダニエル。ルツ記のように「ちょっと本気でいい話」も入っています。ノアの洪水物語にせよ、モーセが海を割った話にせよ、これらはSFスペクタクルのようです。創世記の冒頭の天地創造物語は、まるで現代の人がビッグバンの話をテレビで見て興奮するときのようです。そう思うと、旧約聖書は確かに「昔の人のテレビだった」というのは当たっていそうなのです。

というわけで、暗黙の前提のお話でした。私もこうして自営業になるにつれ、さまざまな暗黙の前提のある人に出会うものです。私にも無自覚的な暗黙の前提があるはずですが、私自身はそれに気づかないわけです。本日は長い記事でしたね。ここまでお読みくださり、ありがとうございました!

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