バスケのバイブル「スラムダンク」と「水戸黄門」と「聖書」

聖書は昔のマンガかテレビである、ということを裏付ける話を、2つ書きますね。

「旧約聖書」と「新約聖書」の違いは、よく論じられます。時代も国も言語も違う2つの書物「旧約聖書」と「新約聖書」をあわせて「聖書」ということ。これは確かにつぶさに読むといろいろな違いに気づきますが、本日は、以下のように考えます。

すなわち、いまの「聖書」そのものを「旧約聖書」と呼ぶことにし、「バスケのバイブル」(バイブル=聖書)である「スラムダンク」を「新約聖書」と呼ぶことにするわけです。これくらい、時代も言語も違うものを「旧約聖書」「新約聖書」と呼んでいるのです。

旧約聖書はギリシア語やヘブライ語で書かれています。新約聖書は日本語で書かれています(スラムダンクですから)。旧約聖書には絵がありませんが、新約聖書には絵があります(マンガですから)。これは屁理屈ではなく、以下のような議論ができます。

だいたい皆さん、クリスチャンであっても聖書を通読(最初から最後まで読むこと)はなかなかしないものです。私はいわゆる普通の意味での旧新約聖書は17回、通読しています。ひま人でごめんなさいね。スラムダンクも、数年前に1回、通読しました。それで、あまり聖書を知らない人でも、「聖書の名言」はご存じだったりします。学生時代、寮のある後輩が、そのまた後輩に向けてのはなむけの言葉で、自分の文章を以下のように締めくくりました。「求めよ、さらば与えられん(旧約聖書)」。これは厳密には旧約聖書ではなく新約聖書ですが、それはともかく「求めなさい。そうすれば、与えられる(求めよ、さらば与えられん)」という言葉は、聖書をあまり読んだことのないかたにも有名です。同じように、「安西先生の名言」とされる「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」(すみません、いま全知全能の先生に聞きました)というのも、同じようにバスケのバイブルたるスラムダンクをほとんど読んでいなくても知っていたりする言葉でしょう。この両者は、「前後の文脈から切り離されて、励ましの言葉として使われている」というところも似ているのですが、内容も同様であることに気づきました。「あきらめたらそこで試合終了ですよ。だから、あきらめないでがんばりましょうね。求めなさい、そうすれば与えられますよ」。ほぼ同じではないですか。

これで、いまの聖書を旧約聖書とみなし、スラムダンクを新約聖書とみなす話を終わります。つぎに、水戸黄門の話をいたします。その前に、私がこれに気づいたきっかけから書きますね。

最近、メガネの度があわないということを、眼医者さんから言っていただきました。眼医者さんは、メガネ屋さんに見せる処方箋を書いてくださいました。普段用と、仕事用の2つのメガネを作るべしということでした。つまり私は、生まれて初めて老眼鏡を作ることになったわけですが、ひとつはすぐにできました。レンズの在庫がメガネ屋さんにあったからです。もうひとつはレンズの在庫がなく、1週間ほど待ちました。それで、メガネ屋さんから在庫が入ったのでどうぞお越しくださいという連絡があり、先日、再びメガネ屋さんに行きました。

代金はすでに払ってあり、必要なのはフレームと引換券だけでした。それですぐに引換券の出なかった私が悪いのですが、メガネ屋さんでもたもたし、メガネ屋さんから、処方箋は私が持っているはずだと言われました。あせってかばんの中を必死で探したところ、その引換券がようやく出て来ました。それをメガネ屋さんに見せますと、メガネ屋さんの態度は一変し、大変失礼いたしましたと言いながら、奥からレンズや処方箋を出して来られました。これで気づいたのです。水戸黄門は、ずっとただのおじいさんだとみんな思っているわけですが、最後に、助さんか角さんか思い出せませんが、印籠が出され、皆さんの態度が一変し「大変失礼いたしました」となるわけです。

それでさらに気づいたのです。新約聖書の「使徒言行録」で、パウロが、鞭で打たれそうになったときにこう言うのです。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」(22章25節)。これで皆さんの態度が一変するわけです。「大変失礼いたしました」。ローマ帝国の市民権は、チケットだったのか分かりませんし、印籠でもないと思いますが、とにかくパウロは「印籠を出した」状態ですね。

つまり、聖書の「使徒言行録」のこの場面は、水戸黄門のような楽しみでありました。やはり聖書はテレビかマンガみたいなものだったのです。本日は以上です!

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