「とんちんかんな問答」および「バランス」と「経験」という言葉の真の意味

私はいま、49歳になります。49歳になって初めて知ったこととして「バランス」という言葉の真の意味と「経験」という言葉の真の意味があります。以下に書きますことは「そんなことも知らなかったのか」ということに過ぎませんが、よろしければどうぞお読みください。
ときどき、人と話していて「とんちんかんな問答」となることがあります。その原因は、おそらく「バランスを欠いている」ということに気づいたのです。以下に典型的な「とんちんかんな問答」の例を挙げます。これは5年も前の例ですが、実際には日常的にたくさんあります。
5年前、私は単身である遠い町に長いこと滞在しました。独身の若い友人の家に居候しました。彼はもっぱら仕事をしていますので、私は日中、ひまでした。それで、近くの教会に油を売りに行くのですが、おそらくその教会でも邪魔者扱いでした。そこでその教会の牧師の一人である、これも私より若いと思われる男性の一人が、その近辺でのひまつぶしを教えてくれました。こちらへ行くと動物園がありますよと言われました。その動物園は何度も行きました。ありがたいアドバイスでした。そして、動物園の反対方向には、なにかのアミューズメント的なものがあるようでした。私は結局、そちらへは行っていません。「障害者の体験もできるのですよ」とその牧師さんは言っていました。行っていないので分かりませんが、もしかしたら、目の見えない体験や、車いすに乗る体験、車いすを押す体験などができるのかもしれません。「こんなに障害者は大変なのですよ」という体験ができるのかもしれません。しかし、その牧師さんの前にいる私は、障害者なのです。発達障害者です。そして、40過ぎの私が、どうしてその町に長期滞在して、日中、やることがないのかと言いますと、まさにその数か月前、私は何度目かの休職で、学校の事務で働き、「デスクワークをしながら受付にお客様が来たらサッと対応する」といったことがぜんぜんできなくて「お前はいくらもらっていると思っているのだ!」と上司や同僚から叱られ、メンタルをおかしくして仕事を休んでいるからなのです。そのことをその牧師さんもよく知っているはずです。こういうのを「とんちんかんな問答」と言っています。こういうことは、日常でも経験しますよね?
それで、考えてみますと、これがどうやら「バランス」という概念と関係があるのです。少しずつ見て参りますね。「てんびん」という概念があります。もともと重さを比べるものだと思うのですが、この「てんびん」という言葉と「バランス」という言葉を使い分けることにします。「てんびん」は、同質なものを比べています。たとえば「重さ」です。どちらのほうが重いかな。小学3年生の算数で習うように、重さとは数で表されます。われわれが通常「数」と呼んでいるものは実数であり、実数は、数直線と言われる直線で表されます。実数と直線は同一視できるのです。そして、比較ができます。実数には全順序というものが入っており、どちらが大きいか、言えてしまうのです。これはあくまで同質なものの比較です。
いっぽうで、バランスは、異質なものから比較ができるようなことを言っています。さきほどの牧師さんの「とんちんかんな問答」は、「障害者の体験ができるアミューズメント」と「目の前にいる人は障害者」という「異質」なもののあいだでのバランスが取れない姿でした。以下のはあまりいい例かどうかわからないのですが、作曲家として、比べようのない人を挙げます。米津玄師さんと、バッハ。あまりいい例かどうか、わかりませんね。でも、なるべく比べようのない2人の作曲家を挙げたつもりです。(流行っているのは圧倒的に米津さんですが、国際的にはバッハのほうが知名度が高いかもしれず、そして、これからのちも残るのはもしかしてバッハかもしれない。)つまり、スカラー量とベクトル量の違いと言いたいです。スカラー量とは「数」のことで、先ほどの「重さ」もそうです。ベクトル量とは、ひとことで言いますと、数ではないもののことで、世の中のほとんどのことはベクトル量です。これをあえて数(スカラー)で表したものがたくさんあります。人間では身長や体重、肝臓の値、IQ、偏差値、年収、などなどです。数で表せば比較ができます。「てんびん」です。これが、だいたい世の中は比べようのない異質なもので満ちています。ズボンを買いたいが、どこで買おうか。そもそも自分はズボンが買いたいのか?ジーパンはあと1本欲しいな。どうも目が疲れる。眼科に行こうかな。目が疲れるのは、照明のせいか?いや、パソコンの明るさがマックスだったぞ!やばいやばい。このように、ものすごくたくさんある人生の異質な選択肢のなかから、だいたいおおざっぱに行き当たりばったりで選べる人は賢いと言え、それが「バランス」です。
安冨歩さんは、その著書のなかで、中国の古典である論語には、「選択」という概念がないことに気づいた過去の学者がいると書いています。それで、選択とは基本的に二択だと言います。二択の二択は四択で、四択の二択は八択だからですね。安冨さんは、選択(二択)という概念の危険性を指摘しています。「はんこつくの、つかないの?」「買うの、買わないの?」という二択。「私と結婚するの、しないの、どっち?」と言われたら、それはもうかなりその状況そのものがよくないのであって、そういう場合は一目散に逃げるしかなく、どうしても2つのうちから選ばねばならない場合は、直感に従って選ぶしかないと書いておられます。先ほど私が書いたことでは「てんびん」です。直線は2つの方向に限りなく伸びています。数直線ならプラス方向とマイナス方向で、あるいは北と南、あるいは東と西です。「二択」です。私のなかで「論破ごっこ」という概念があります。しばしば「どろぶね」の人のあいだで戦われる「生涯をかけた揚げ足取り合戦」のことを言います。私も長いことその洗脳のなかにいました。これも、勝つか負けるかの二択です。大船に乗った人の多くは、このような揚げ足取り合戦に巻き込まれそうになったら、その場を去ると思います。このように「勝つか負けるか」という同質のなかの二択ではなく、「その場を去る(相手にしない)」という「異質な」道が選べるのは「バランス」であり、真の賢さであると言えると思います。
つぎに「経験」という言葉の真の意味について述べます。経験とは、失敗から学び、賢くなることです。こう書くと当たり前に聞こえるのですが、以下に、「経験」に似ているものの、私のいう「経験」とはまったく違うものを書きますね。機械学習という、AIを支える仕組みがあります。多くの機械は、人間の指示で動きます。機械学習とは、機械が自分で自分を「賢く」する技術です。「こういうことをすると失敗するのだな。ひとつ賢くなったぞ」というふうに、機械が自分で賢くなっていきます。これがAIの賢さの仕組みです。あたかも私が先ほど述べた「経験」というものにそっくりですが、これは私のいう「経験」とは違います。AIはあくまでたくさんのパターンを覚えているだけです。これも少しずつ書いて参りますね。
人工知能(AI)が、人間のプロ棋士(将棋や囲碁をする人)を倒すようになったニュースももう十年は前のものでしょうか。いまは、将棋などにおいて、人間よりもAIのほうがずっと強いみたいですね。しかし、将棋はあくまで「選択」です。つぎにどのコマを動かすか。銀を動かすとしたら、それは前か右か。このように、それは同質のものから選ぶ「選択」です。こういうものに強いのがAIの特徴です。
いっぽうで、私のいう「経験」とは、失敗から学ぶことであり、「こちらはちょっと右過ぎたな。もう少し左か」というふうに、「バランス」を取りながら、だんだん人間として賢くなることを指しています。いま「右」とか「左」とか、二択っぽい(左右に広がる数直線のように)言ってしまいましたが、実際には人生の状況はもっと「ベクトル的」であり、たくさんある異質なもののなかから、こっちかな、いや、こっちかな、と動くことを言います。ベテランのお医者さんがしばしば賢いのは「経験」を積んだからです。それは、患者をパターンに当てはめて見ていません。ある程度、パターンはあるでしょうが、ひとりひとりみんな違う患者さんをていねいに診ることを「診察」というと思います。
学生時代に読んだ、数学者の佐武一郎さんの書いたエピソードがあります。佐武さんとシュヴァレー(高名な数学者)は、よく囲碁をしていたそうです。アンドレ・ヴェイユ(これも高名な数学者)は佐武さんとシュヴァレーが囲碁に時間を費やすことをあまり快く思っておらず、よく「お前も”Go mathematician” か」といって軽蔑したような顔をしたそうです。あるとき、日光で佐武さんとシュヴァレーが囲碁をしていたとき、少し酔ったヴェイユが、盤面の碁石をざらざらとくずしてしまったことがあったそうです。佐武一郎さんもシュヴァレーも国際的に偉大な数学者ですが、盤面を崩したヴェイユは、「20世紀に活躍した偉大な数学者を10人挙げよ」と言われたら必ず入るくらいのものすごい天才数学者です(どうもこの話は全体にレヴェルが高すぎます)。それで、このヴェイユの直感ですが、おそらくは、数学も囲碁も、いずれも人間の頭を使う活動ですが、囲碁はあくまでパターン型であり、数学は、人間の本質的な頭を使うクリエイティヴな行為であるところからの憤激であったと思うのです。確かにその数十年後、囲碁はAIのほうが強くなりました。数学とは真の人間の賢さを要するもので、人間でしかできないものだということをこのエピソードは物語っていると思います。(ちなみにアンドレ・ヴェイユは、思想家のシモーヌ・ヴェイユの兄です。私はずっとのち、ヴェイユは妹のほうが有名なのだと知って驚いたものです。)
もちろん、囲碁も将棋も、勝っても負けても楽しい「遊び」だからいいのであり、「囲碁を楽しむ喜び」は人間に独特なものだと思います。
そのようなわけで、「バランス」という言葉の真の意味と「経験」という言葉の真の意味を知った次第でした。人間の真の賢さのことでした。
Ref.
安冨歩『生きる技法』
佐武一郎『リー環の話』の「シュバレーの思い出」
