祈るような気持ち=祈り

最近、ある教会の礼拝に出席しました。教会では、祈りがささげられます。中学3年生のための祈りもありました。そのとき、高校受験が行われていたのです。受験は終わり、発表がまだ、というタイミングでの祈りでした。もう試験は終わっているので、ただ合否の結果待ちです。この「祈るような気持ち」のことを、「祈り」というのだ、と、改めて思わされました。
これも最近のことですが、私は、脳のMRIを受けました。MRIの検査は、大きな磁石による検査であると説明を受け、体じゅうの金属を外しての検査でした。15分ほど、機械のなかにいました。自分がまさに「まな板の鯉」であることを自覚しました。「祈るような気持ち」でした。終わって先生の診察を受けて、脳に異常はなく、ホッとした次第ですが、これも、祈ったからといって、私のなかにある腫瘍が消えるわけではありません。(腫瘍等はなかったわけですけど。)やはり「祈るような気持ち」そのものが「祈り」であるという経験をしたことになります。
私は、現役の高校生であったころ、模擬試験を受けて「問題は似せられるかもしれないけど、採点は真似できないだろうな」と感じていました。採点とは、極めて人間的な営みであると思います。ずっとのち、私が三十代のころ、教員となってテストの「採点」をしたころは、「採点基準」というものが設けられていて、それに沿って採点せねばならなかったです。おそらく多くの人のイメージする採点は、後者だと思います。マークシートリーダー(つまり機械)でも採点できる、非人間的な採点です。これですと、それっぽいことを書いていても、全体としては「わかっていないな」と思う答案が点を稼いでしまい、逆に、「よくわかっているな」と思う答案が、答えが間違っているゆえに、大幅な減点となったりしてしまいます。「返却」というものがなければ、もっとずっと、いい意味で採点者の主観による「本質的な」採点ができるのに、といつも思っていました。おそらく、いい大学の入学試験は、出題も賢いのみならず、採点も賢いのだと思います。AIでは出ない、人間の賢さだと思います。
それで、そういう人間的な採点であれば、入試も、A先生が採点するのと、B先生が採点するのとで、合否が違ってくることは十分にあると私は思っています。
としますと、「自分の答案が、自分を評価してくれる先生に採点されますように!」という祈りであれば、答案を提出したのちも、教会で祈りがささげられることは、意味のあることなのかもしれない、と思ったりもしたわけでした。
こう考えますと、「祈り」とは、気休めなのかもしれません。でも、世界中の文化に「神様」はいます。みんな「祈るような気持ち」を持っているのです。自分の気持ちを正直に言えることが祈りだとしますと、「祈るような気持ち」というのは、人間的な感情だと言えると思います。
脳に異常がなかったことは、神様に感謝としか言いようがありません。神様ありがとう!
