「地頭」という語の意味の変遷

(以下は、7月2日、病気でホテル暮らしをしているころの、ある生徒さんの親御さんに宛てたメールから再編集した記事です。ご本人と親御さんの許可を得て掲載しています。お子さんの名前は仮にKさんとしています。)

こんにちは。いつもありがとうございます。本日は、「地頭」という語の意味の変遷について、書かせていただきたいと思います。

十数年前、ある家に泊まりました。ある年の正月で、家族3人でです。その家のご主人が、布団をひく場所を考え、「こういうときに頭を使わなきゃ」と独り言のように言いました。私は、途方もないような気持ちになりました。直感的に私にない種類の「頭」の使い方です。特に私はそのころダメの教員まっただ中で、自分の愚かさを言われたような気がしたのだと思います。

その少しあと、我々家族は、高校生クイズを見て「地頭クイズ」というものを見ました。そのときの問いはよく覚えていませんが(確かたくさんの細かいものを別の場所に移すという課題でした)、直感的にこれはその年の正月の「いかに布団をひくか」という問いと同種で、私が最も苦手とするものでした。これは私にとって「地頭」という言葉を初めて聞いたときでした。

そして地頭という言葉は市民権を得てたくさん使われるようになり、程なくして、上に書いた意味と違うような使われ方をするようになりました。以下のような意味です。

端的に以下の問答に表れていると思います。星くず算数・数学教室が少し繁盛したころ、学生時代に数学の得意であられた大人の方のご入門がありました。微分積分をご希望でしたが、組み合わせの話になったとき「その地頭のやつは苦手なのですよ」とおっしゃいました(多項式の微分を考えるとき、二項定理を数学的帰納法で証明しようとして)。どうも高校の数学で言いますと、「数学Ⅰ」よりも「数学A」に代表されるような数学の難しさを指すようになったらしいのです。

この違い(地頭という語の2種の意味のほうではなく、「数学Ⅰ」と「数学A」の違いのほう)を明解に述べることは難しいように思います。ただ、専門の数学でもこの2種はあったものです。

狭義に低次元トポロジーでありましても、周囲にいろいろな研究をする先輩や同輩、後輩がいたものです。難しそうな研究をする人はたくさんいました。ゲージ理論とか、シンプレクティック幾何とか、いかにも難しそうでした。私の研究はそれに比して単純なと言いますか、エレメンタリーな議論をするものでした。現役の院生のころは、自分の研究がなんだか幼稚に思えたりしたものです。ところがどうやら(残念ながら現役の院生でなくなって久しい最近気づいたのですが)このようなエレメンタリーな議論こそ最も難しいとされていて、私はその意味で評価されていたらしいのです。高校の数学でいうと前者が数学Ⅰ、後者が数学Aに相当する難しさでしょう。私の得意とした研究は「地頭」型でした(当初、正月の帰省や高校生クイズで感じた難しさではなく、あとから生まれた地頭という言葉の意味で)。つまり私は、典型的に自分の苦手な、自分にないものとして「地頭」という語を認識したのに、いつの間にか自分の得意な頭の使い方(ごめんなさい、自分で自分の地頭がいいなどと申しますとはなはだ傲慢でしょう)の意味に変遷しているので気になる現象なのです。

さて、もともとの意味での地頭がよいとは、おそらく「理性」の意味です。ここで言う理性とは、いわば神様から与えられた人間の本来の意味での知恵であり賢さのことです。私がときどき「人生の羅針盤」と呼んだりしているものです。たとえば、Kさんを例に挙げます。Kさんがお母さんとなり、ある日、お友達が3人で泊まりに来るとします。このとき、どのように布団をひくべきか考える。これを考えることは、Kさんは得意である気がするのです。狭義に数学は苦手かもしれませんが、こういう知恵は発揮しそうな気がします。これが「理性」とさっき私の呼んだもので、人間の根本的な知恵であり、もともと地頭という言葉の意味はこちらでした。

理性とは共感性です。布団をひくという行為はそもそも「どこにひいたら気持ちよく寝てもらえるか」を考えることです。その意味であらゆる仕事は共感性であり、接客でも料理でも医療行為でも、すべて「お客様のお役に立って自分も一緒に喜ぶこと」が仕事の本質です。それが人間には最初からインストールされており、それが理性だろうと思います。お友達が泊まりに来ることは楽しく、その布団をどこにひくか考えることも楽しいことです。

以前、Kさんは並の経済評論家よりずっと賢いと書かせていただきましたが、今もますますそう思います。経済学は「理性」の学問です。同様に、教育学も理性の学問だと思います。「理性の数学」として統計学があります。語学も本来、理性の学問だと思います。医学もでしょう。残念ながら学校のテストは、あっているか間違っているかマルバツだけなので神様からもらった知恵である理性は測れませんが、生きていく上で、そして楽しく充実して生きていく上で大切なのが理性だと思います。本来、みんな持っているものですが、たとえば私は残念ながら長いこと封印されてしまっていた感覚であり、ようやくここ数年、いろいろな経験から感覚が再生されつつあります。ひとことで言うと「道徳」なのでしょうが、私は今、病気をしながら、たくさんの人生勉強をさせていただいていると感じます。本日の「地頭」という語の意味の変遷の話は以上です。お金の価値を知り、人様のために働く賢い人の少ない世では、地頭みたいな語が生まれては消えるのかもしれません。本日もありがとうございました。

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