人生の羅針盤

3年前、星くず算数・数学教室のホームページの「私の経歴と算数・数学に対する考え」を書いてくれた友人がいます。彼女は、同じ教会に通う仲間でした。それよりも前、あるとき、彼女が歌うゴスペルのライブに行ったことがあります。
地下鉄の駅の構内で行われた1時間くらいのゴスペルのライブです。彼女はトークも巧みで、曲と曲の間に、軽妙なトークを交えていました。途中で、われわれの教会の紹介を、ごく自然にしていました。私は内心「それはいわゆる『宗教の勧誘』と言われる行為だけどな」と思ってみていましたが、驚くことに、彼女は、あたかもおいしいお店を紹介するような自然な感じで、自分の教会のおすすめをしていました。おそらく、道行く人も、彼女自身も、それが「宗教の勧誘」と言われる行為だとは認識していなかったでしょう。それほど自然でした。
それで、つい最近、気づいたのです。カルト宗教と言われるもの、一般にあやしい宗教と言われるものは、「執着」でできていること。「人生の羅針盤」とでもいうものが狂っており、バランスを崩していて、いくらでもお金をつぎ込んでしまう状態にあるもの、それがカルト宗教でした。そのゴスペルの彼女はおそらく「お育ちのいい」人でした。確かに、笑顔のさわやかな方でした。彼女にとって教会とは執着でないのだな、と改めて思わされた次第です。
(カルト宗教は、あちこちにあります。私はかつて、中高の教員でしたが、しばしば、「うちの子が、いい学校に受からなくて、いい人生を送れなかったら、幸せになれないという宗教」を信じておられる親御さんはおられたものです。これもお金をじゃんじゃんつぎ込んでしまいます。このほか、現代でも、インターネットに「プロモーション」と書いてあるもののほとんどは、読者を洗脳しようとしているなんらかだと思われます。)
先々週の木曜日、私は「バランス」という言葉の真の意味がわかった瞬間がありました。そのとき、私は言葉にならず、自分の机で「バランス!」と言っただけでした。翌日、私は図書館にいましたが、そこで安冨歩さんの『生きるための論語』を読んでいて、中国の古典に出て来る「中庸」という概念が、ほぼ、本来の意味での「バランス」に相当することを見ました。つまり、人生の羅針盤が狂っていない状況を言うのです。
私は、三十代のころ、勤めていたところがつらかったにもかかわらず、やめることはできませんでした。やめてもとほうにくれるだけだからですが、そんなに嫌ならやめればよいのだと思います。これも、「バランス」を欠いています。人生の羅針盤が狂っているのです。どっちが進むべき「まっすぐ」な道なのか、わからなくなっているのです。私はその仕事に執着していたと思います。その人生の羅針盤の狂った状態は49歳になるいまでもそうですが、それでも、「自分の人生の羅針盤は狂っている」のだと、自覚できてはいます。
もっと身近な例を挙げます。私は、新幹線の自由席にしか座れない人間でした。指定席に座るお金が、使えないのです。それで、自由席の券を買っては、座れるかどうかばかり気にしていました。これも、なんらかのバランスが崩れており、そんな思いをするくらいなら、指定席券を買えばよいのです。「お金の使い過ぎ」と「お金の使わな過ぎ」は同じ原因に発します。「お金の使いどころがわかっていない」のです。自分の内なる心の声を聞き、ほんとうに自分のお金を使うべきところに使う。それは、「バランス」でした。
私は、四十代の終わりごろから、洗脳が解けて来ました。生まれたときから信じている、壮大なカルト宗教の洗脳です。語学のように、新しい言語を学び、ひとつひとつ、意味を確かめながら進んでいます。このたびは、「バランス(中庸)」という言葉の意味が新たになりました。その友人のゴスペルのライブのことまで意味が通りました。残りの人生を、言葉の本来の意味に立ち返りながら生きていきたいです。
