合格祈願と学業成就

私が東大に受かったのは31年前、1994年のことです。大学と大学院にあわせて12年いました。たくさんの東大生、東大院生、そして東大を卒業した仲間を見ました。いま、改めて思うことがあります。それは、学問をしたくて、大学に行くのか、それとも、嫌な仕事をしたくないから、それを他の人に押し付けるために、いい学校へ来るのか。それは、暗黙の前提すぎて、即座にはわからないものでした。

いま、私の親しい友人で、2人、B型作業所で働く人がいます。2人とも、すごくいい人です。B型作業所は、最低賃金を割った労働をするところです。私自身も、そういうところで働くことも考えたことがありました(39歳から休職と配置換えを繰り返し、44歳から長い休職、そして46歳で仕事を失うころ)。世界は、そういうところで働く人が「下の方で」支えておられます。もしも、東大に行くことが、嫌な仕事をしないため、社会の「上層」のほうへ行くため、椅子取りゲームで勝つため、であるなら・・・。かつての31年前の仲間から、現在のいい学校を目指す人にいたるまで、そういう動機で勉強をしている人はいるのではないか。

学問であるなら、たとえば、中学3年で習う「二次方程式」というものの意味がわかること、これは、みんなで分かるなら、いいことです。これは、「学業成就」だと思います。一方で、「合格祈願」のほうは、ひとりが受かるごとに、誰かを蹴落としています。椅子取りゲームで勝つことを意味し、誰かに嫌な仕事を押し付けることを意味します。私は、いま考えてみますと、学問がしたくて大学に行ったほうでありましたので、暗黙のうちに他を蹴落とす意味で勉強している人の存在について認識したつい最近、これは驚いたことです。

みんなで二次方程式の意味がわかること。それに類することでは、いまに微分、積分がみんなの共通認識になる時代が来るだろうとおっしゃった大学時代の先生のことも思い出します。しかし、世の中は残念ながら逆のほうを向いているようです。私が教員の時代に言われていましたが、東大の入試は、30年間、ずっとやさしくなっているようです。みんなで頭が悪くなる方向へ向いているのですね。

先日、部屋を片付けてもらいました。片付けた人は、私の薬を、私の使いやすいように並べてくれました。それは思いやりです。あらゆる仕事は、単なる作業ではなく、思いやりなのだと痛感した次第です。

というわけで、お守りの言葉に象徴される「合格祈願」と「学業成就」の、似ているけれどもぜんぜん違う意味について、思ったことを書きました。働く人には敬意を持つべきですし、嫌な仕事でも率先してやるべきですし、他を蹴落として勉強するのは本来の勉強ではないと思います。

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