なにかに「とらわれた」人、そしてその「とらわれ」から脱出した人(新約聖書のパウロのお育ちの悪さゆえにいろいろなことを言語化する能力について)

長い題をつけてしまいました。以前、新約聖書に出て来るパウロという人物はお育ちが悪かったのではないか、そして、ダマスコ途上で劇的な「回心」を遂げて以来、人生の両面を見た人として、多くの人がわざわざ言葉にしないことを言葉にする「芸術家」(「芸能人」とも「芸人」とも言うかもしれません)という人なのではないか、という仮説を述べました。
そのブログ記事(2025年3月6日の記事)は最後にご紹介するとしまして、本日はその続きです。パウロの書いた手紙から、新しい発見をご紹介します。つまり、聖書オタクな記事ですが、なるべく聖書に詳しくないかたにもお楽しみいただけるように書きたいと思います。よろしければどうぞお付き合いくださいね。
2点あります。
1点目は、新約聖書ガラテヤの信徒への手紙で、パウロが「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5章12節)という、ちょっと過激なことを言う場面です。
この辺りでは、割礼という、当時のユダヤ教の習慣で(いまでもあると聞きます)、男性が包皮を切ることを言うらしいですが、パウロは、そんなに割礼、割礼と言うなら、いっそそのものを切ってしまうがよい、と言っている場面です。
パウロの教えで「人は行いによってではなく信仰によって義とされる」というものがあります。「信仰義認論」と言われています。まことにすばらしい教えで、私もずっと影響を受けて来ました。こういうのを言語化するのがパウロの特徴と言いますか、芸術家としての長所なのですが、本日はこれに立ち入りません。このガラテヤ書の文脈では、パウロは、「行い」に相当するものとして「割礼」を挙げており、それでこういう書き方になったのです。
聖書をテレビであると認識しますと、パウロはさしずめユーチューバーでしょう。ひたすら持論を展開するタイプのユーチューバーさんです。パウロは福音書を執筆する様子もなく、ひたすら手紙を書いています。パウロの手紙は新約聖書のじつに4分の1を占めると言われます(ここにある新共同訳聖書で、新約聖書がだいたい500ページ、パウロの手紙はだいたい125ページで、確かに4分の1です)。パウロは饒舌なユーチューバーみたいなものなのです。
そこで、現代における、ちょっとお育ちの悪い感じのユーチューバーさんを思い描いていただきたいのですが、「おっしゃることはその通りだけど、その言い方はちょっとないのではないか」ということがあると思います。パウロのこの箇所は、まさにそんな感じだと分かるわけです。
パウロは、ちょっと口が滑ったのか、筆が滑ったのでしょう。パウロはときどきこういう勇み足があります。それはパウロのお育ちの悪さゆえでした。(ご愛嬌です。)
さて、2点目に参ります。
「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」。(新約聖書コリントの信徒への手紙一 6章12節)
とパウロは書いています。しかも、くどいことに、この手紙をしばらく読み進めますと、また書いてあります。
「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」。(10章23節)
この言葉の意味が分かったのです。以下に記して参ります。
「すべてのことが許されている」と、これだけ強調する人は、これが当たり前でない人です。つまり、不自由な人なのです。パウロはなにかにとらわれた人なのです。
これは、私自身に照らし合わせて、思いました。私は20歳のときから日記をつけています。49歳になるいまもつけています。それで、日記をそんなにつけること自体もそうなのですが、とくに二十代前半の、大学や大学院で数学を研究するなかで、ひんぱんに私が日記に書きつけている言葉があります。それはまさにパウロにそっくりで「自分にはすべてのことが許されている。やってはいけないことはない」と私はしつこく日記に記しているのです。私もとらわれた人間でした。
この「とらわれ」という状態をこのブログで伝えるのはなかなか困難だと思いますが、自分だけでなく、周囲の友人、知人を見渡しても、なにかにとらわれた人というのはいろいろ思いつきます。何十年も前の友人から、たったいまの友人まで、いろいろ思いつきますが、それは割愛させていただきますね。再び、自分を例に取ります。
私は30歳で就職しました。中高の教員になったのです。徹底的に向いていない仕事でした。ひたすらひどい目に会いながら、それでも、16年も勤めてしまいました。つい最近、46歳まで勤めていたのです。たとえば、三十代で教員をする自分に、「そんなに嫌な仕事なら、辞めたら?」と言っても私は辞めることができなかったと思います。私は「とらわれて」いたのです。(皆さんも、明らかにつらい、もう辞めたほうがよい仕事を続けている友人に「辞めたら?」と言ってもいっこうに辞める気配のない人はおいでになったりするかと思います。そんな感じのことが言いたいです。伝わるでしょうか?)
「人の悪口を言ってはいけません」という、一般的に言われる言葉があります。仮にこの言葉を「道徳」と呼びましょう。この「人の悪口を言ってはいけません」という「道徳」が、目に見えない糸となって、自分で自分をがんじがらめにしばるという、そういう「とらわれた」人がおいでになったりします。私もその一人です。それで、パウロの言うように、「すべてのことは許されている」のですから、悪口を言ってもいいのです。すべては自由だからです。ただし、忠告しておきますけど、人の悪口は言わないほうがいいですよ。人の聞いているところで人の悪口を言うと、巡り巡って自分に返って来て、自滅することになりますよ。人の悪口は言わないほうがいいです・・・。という、これのことをパウロは「すべてのことが益になるわけではない」と言っていたのです。
小澤征爾さんという世界的な指揮者がおいでになります。昨年、お亡くなりになりました。考えてみますと、小澤さんが人の悪口を言っているシーンは思いつきません。たくさんのリハーサル風景、またインタビューに答えるシーンなどが残されていますが、小澤さんが誰かの悪口を言うシーンは思いつきません。これはおそらく、小澤さんは「道徳」的に高潔な人物であったとか、「立派ですね」とかいうことではなく(もちろん小澤さんは非常に立派な方ですが)、おそらくは小澤さんの生きる上での戦略であり、たとえば評論家から悪く書かれてもそういうのは相手にせず、ひたすら指揮棒を持って実力で勝負に出ていたと思われるのです。これが「人の悪口を言ってはいけません」という「一般的道徳律」の真の意味でした。
おそらく、パウロが「とらわれて」いたものは、「律法」だったのだろうと思います。律法(りっぽう)とは、旧約聖書に書かれた「いましめ」です。パウロは、律法によって、がんじがらめになっていたのだろうと思います。その、自分をがんじがらめにしていた律法から「自由の身」になって、それで改めてパウロの気づいたことがあります。律法とは、人をがんじがらめにするものではなかった。「処世術」であった。「生きるための戦略」であった。「アドバイス」であった。「忠告」であった・・・。
すごい気づきだと思います。
それをまた、パウロはあえて言語化するわけです。このことは、当たり前に思える人にはひたすら当たり前であり、あえて言語化しないと思います。また、ぜんぜん当たり前でない人がこういうことを言うこともないと思います。つまり、「お育ちのいい人」も「お育ちの悪い人」も、こういうことを言語化しないものだと思います。パウロは(お育ちが悪いうえでダマスコ途上で劇的な回心をして)人生の両面を見た人なので、大作家のように、あるいはカリスマ的な歌手のように、こういうことを言語化し、饒舌にYouTubeで語る人のようになったのです。
これで、本日の「聖書の分析」は終わります。おそらくは、とくに2点目は、こういう風に読む人は稀であると思います。(独創的な見解であると自負しています。)この話は、友人の牧師さんの前で話して、喜んでいただけました。いかがでしたでしょうか。
最後に、その今年の3月6日の記事のリンクをはりますね。パウロのお育ちの悪さについての最初の気づきの記事です。あわせてお読みくださったらと思います。それではまた!

