愛されて育った人は「共感」ができる(新約聖書のパウロのお育ちの悪さおよび芸術家の存在意義)

「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」

新約聖書に載っているパウロの言葉です。この、一言で言って「共感」と言われるものについて、最近、思うことがありました。

病院に行ったとき、思いました。「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣く」のは、医療従事者の基礎的な心構えですね。新しい生命の誕生に喜び、患者の苦しみに寄り添う。しかしこの「共感」というものは、愛されて育った人は言われなくてもごく自然にできることであり、逆に、できない人は、言われてもできないことではないかと思ったわけです。

最近、Quoraで読んだ話を例に挙げます。モテない人の特徴として書かれていた話です。デート中の男女の会話です。女性が「このお店、ビールが300円なんだね、安ーい」と言います。このとき、女性は「ほんとだねー」と言って欲しい、つまり共感がして欲しいわけです。しかし、男性は「このお店はね、ビールを安くして、おつまみは高くして、採算を取っているんだよ」と言い始めます。女性は「単に『ほんとだねー』と言って欲しかったのに。なんでうんちくを語り始めるのか。知っているところを見せたいのか。興ざめ」と思ったりしています(話を単純化させていただきました)。これがモテない男の特徴として書かれているわけです。これは、先ほどのパウロの言葉で言えば「ビールが安いと言って喜ぶ人とともに喜べ」、すなわち「ほんとだねー」と言ってともに喜ぶことが推奨されているわけですが、どうも、これは、できる人は自然にできて、できない人は言われてもできないと直観しました。なぜなら、私はできないからです。男女間のみならず、私はこういう場面で、まさにこの男性のように、うんちくを語り始めてしまいがちです。やはり、この共感というものは「お育ち」で決まっているのではないかと。つまり、愛されて育った人(これを「お育ちがよい」と言うことにします)には自然にできて、共感性のない人(これを「お育ちが悪い」と言うことにします。私はこちらのタイプ)は、こうしてネットの記事になっていても、できないのではないかと思ったわけです。

それで、パウロ自身が、お育ちが悪いのではないか、という説が私のなかで浮上しました。以下に少しずつ書いて参ります。

パウロは、新約聖書の使徒言行録によれば、若いころは、キリスト教を迫害していました。キリスト教徒を見ては、つかまえて牢に送っていたそうです。それが、ダマスコというところへ行く途中で、復活のイエスを見て、180°の方向転換が起き(「回心」と言われます)、それで、以後はキリスト教徒となり、キリスト教を宣べ伝えるものになった、という話です。この、パウロの若いころの乱暴ぶりは、パウロの「お育ち」の悪さを表すものだと思います。しかし、ダマスコ途上で、劇的な回心をしたのちも、パウロのお育ちは変わらなかったのではないか、というのが、私の中で浮上した説です。パウロの両親は聖書に出て来ませんが、パウロの「お育ち」は、パウロの満2歳の誕生日くらいには決定づけられていたのではないか。それで、劇的な回心ののちも、パウロはずっとお育ちが悪かったのではないかと。

そのように思うひとつの理由として、パウロの手紙はたくさん聖書に収録されていますが、聖書の愛読者のあいだで有名な話で、「パウロって、なんか嫌な感じがする」と思っている人が多い、という事実があります。パウロはいいことをたくさん書き残しましたが、なんとなく嫌な感じを受けるのです。これは、パウロのお育ちの悪さに由来するのではないか。

「説教おやじ」と言われる人がおられます。いいことを言っているけれども、全体的になんとなく嫌な感じのする人。「説教」という言葉も、もともとは教会で聞ける「いい話」の意味でしたが、現在ではもっぱら「叱られる」ことを意味しますよね。

「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」という言葉も、それが当たり前でない人の言葉のように思われるわけです。そういう目でパウロの残した聖書の言葉を思い出しますと、「愛は忍耐強い、愛は情け深い」という言葉にしても、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい」という言葉にしても、「それが当たり前ではない人の言葉」というふうに捉えることができるとも言えます。

これが、パウロの残した「名言」の特徴かもしれない。

こう書きますと、パウロのことを悪く言っただけになるかもしれませんが、このあとも考えて、次のように思いました。この「お育ちの悪さ」は、芸術家の特徴かもしれないと。

パウロの「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい」という言葉は、純粋な「お育ちの悪い」人は書かない言葉であるのみならず、純粋な「お育ちのいい」人も書きそうにない言葉だと思います。お育ちのいい人にとっては当たり前すぎて、言語化されないことが多いと思うからです。この言葉は、「お育ち」が悪く、そして、ダマスコ途上で劇的な「回心」を遂げたパウロこそが書ける言葉ではないかと思ったのです。

芸術というのは、この、人生の両面を見た人が残すものかもしれません。芸術家のすべてがお育ち悪いとは言えないとも思いますが、大作家と言われる人で、こういう「人間としての欠け」を持っていて、大きな芸術を残した、という人はいると思います。

ここまで考えて、私はようやく、自分の生きる価値について考えました。私は、自分のお育ちが悪く、皆さんに、なんとなく嫌な思いを与えていることに気が付いてしまいました。しかし、私の生きる意味も見出しつつあるのです。私も、お育ちが悪いと同時に、四十代の後半から、少しずつ「洗脳」が解けて来て、いろいろなことを言語化しつつあるわけです。私の果たす使命を考えると、これは私の生きる意味ではないか・・と思ったりしたのです。

すみませんね。ここまでお読みくださった皆さんには、私はいくら取り繕ってもしようがないと思います。パウロと自分の共通性は、前から気づいていたとも言えます。1回しかない人生を、自分らしく生きて行きたいと改めて願います。

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