幼少の記憶をたどる旅(集合と写像)

最近、「自伝風の読み物」という連載をしています。以下の話はだいぶくだらなく、その連載に含めないつもりで書いていますが、集合と写像に関する話です。幼少の記憶をたどる旅をしていて、いろいろくだらない話も思い出すのです。

最初に、集合と写像の話をします。竹之内脩『入門 集合と位相』の最初のほうを読み返していますが、著者のものを見る目の深さに圧倒される思いです。(これは私が東大の数学科の学生であった95年の冬学期から持っている本です。2年の後期に集合と位相の授業がありました。)その話はいずれこの本をよく読んでから書きたいと思いますが、第2章の集合のところで、写像の例として、ものの集合から名前の集合への写像${f}$が、ものを名前で呼ぶという現象として書いてありました。人間を名前で呼ぶときは、同姓同名の人がいるので、単射ではないわけです。また、人間に性別を対応させるのは、人間から{男,女}という集合への写像であるというわけです(この写像も単射ではない)。それで、以下のような話をします。

小学校の音楽の時間に習った歌で、「南の島のハメハメハ大王」というものがありました。この歌を最後まで歌うと、島の住民のすべてが、ハメハメハという名前であることが分かります。この場合、島の人の集合から名前のなす集合への写像は、定値写像となるわけです。これは、名前としては意味をなさないことになります。なぜなら、名前というのは、人を区別するためにあるからです。聖書に出てくるヘロデ大王も、一族みんなヘロデという名前みたいですが、やはり区別する必要があるようで、ヘロデ・アンティパスとか、ヘロデ・アグリッパなど、区別するための言い方がしてあるわけです。また、使徒ヨハネと、ヨハネによる福音書の著者と、ヨハネの手紙の著者、ヨハネの黙示録の著者も、必ずしも同一視はできないわけです。同じ名前の違う人はいるからです。実際、使徒ヨハネと洗礼者ヨハネは違う人物です。

位相不変量は、同じ位相であれば、同じものを返します。違う位相であったからと言って違うものを返すとは限りません。例ですが、基本群が違ったら違う図形であると言えますが、基本群が一致したからといって同じ位相であるとは言えません。(もっとも、3次元多様体については、おおむね基本群が分類する、反例はすぐに思いつくレンズ空間みたいなものしかない、と聞いたことがありますが。ポアンカレ予想の肯定的解決ののちの3次元トポロジーについては、私は間もなく院を去ってしまったのでその後をよく知りません。)これは、さっきの名前の話で言いますと、違う名前であったら違う人と言えても、同じ名前であったからといって同じ人とはいえないようなものです。そこで学生証番号のようなものがあり、同じ番号であれば同じ人物であることがいえるようにしてあるわけです。マイナンバーも同様で、違う番号なら違う人だといえるのみならず、同じ番号なら同じ人だといえてしまうなかなか恐ろしいものであると言えるでしょう。この、逆がいえるものを、完全不変量と言うわけです。

それで、似た名前なら似たものか?という話に移ります。ものの集合と、名前の集合のいずれにも、位相を入れます。似たものは近い、名前も似たものは近い、となるような位相を入れるのです。そして、先ほどの写像${f}$は、連続写像であると信じることにしますが、この連続性が、しばしば崩れるのです。幼少のころの記憶をたどるうちにだんだん思い出したことですが、この${f}$という写像を構成することが、子供のころの、ものの名前を覚えるということであったと思うのです。

似た名前であるものの、違うものとして、たとえば「まぐれ」と「まぐろ」が思い出されます。小さいころ、この2種は紛らわしいものでした。「ばってら」と「バッテリー」も同様です。幼稚園生のころ、ヤマハ音楽教室に通っていましたが、「くーらい、くーらい(暗い、暗い)」という歌を歌いながら、私の目はクーラーを見ていました。こういう幼少の記憶がある人は、しばしばおられるのではないでしょうか。(考えてみますと、「まぐろ」と「ばってら」は、おすし用語ですね。)この、似た名前ならば意味も似ているはずだ、という、${f}$の連続性が崩れる場合に起きるのが、ダジャレという現象であることにも気づかされます。逆に、意味が似ている言葉で、まったく違うものもときどきあり、私は「まぐれ」と「偶然」の区別がなかなかつかなかったことも思い出します。(「まぐれ」という語は、発音は「まぐろ」に似ていて、意味は「偶然」に似ている。)「じきに」は長いこと「そのうちに」という意味にとっていました。実際には「すぐに」という意味のようでしたが、「じきに治るよ」と言われたときは「そのうち治るよ」と解していたわけで、それで問題はありませんでした。「だるい」という状態は、どのような感覚か、しばらくわかりませんでした。体の調子が悪い意味で使うことは知っているものの、どのような体の不調のときに使うのか、どうしても分からなかったです。このようなことを、この数日で、漠然と思い出しているわけですが、私は自分の物ごとのとらえ方に、かなり他の人と違う特徴的なものがあることに気づきつつありますので、これらのことも、心にとめながら、引き続き幼少の記憶をたどりたいと思います。

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