「あっちむいてほい」が苦手だと言えた日

最近、私は、「じゃんけんぽん、あっちむいてほい」という遊びが、じつは苦手であることをようやく認識しました。自分で自分の苦手なことを認識するのって、なかなか大変です。私にとって「あっちむいてほい」とは、あるとき突然、加わるように誘われて、ひたすらじゃんけんをやらされ、右を見たり下を見たりしているうちに、周囲の人間がドッと笑い(おそらく私が下を指さされたときに下を見たのでしょう)、そしてあれよあれよといううちにみんな次の話題に移っている、というようなものだったのです。先日、ようやく「あっちむいてほい」の誘いを断りました。48歳にしてはじめてでした。
よく「生きづらさをかかえた人へ」というような福祉のチラシを見たりいたします。しかし、ほんとうに行きづらさをかかえた人は、自分が生きづらさをかかえていることに気づいていなかったりするのですよね。かつての私がそうでした。「自分は生きづらい」と思えている人は、それだけで少し希望があります。
高校の数学の教科書に「『10000は大きい数である』という文は命題ではない。その理由を説明しよう」と書かれています。「正しいか正しくないかが明確に決まる文や式を命題という」と書かれていますので、この文は、たとえば10000が金額だとしたら、アイスの値段としては大きく、月給としては小さいので、命題ではないということなのでしょう。しかし、実際に生きていくうえでわれわれが口にしているのは、しばしばこの教科書の意味での命題ではないことになります。
ある小学生の生徒さんが、授業でおっしゃったことです。「1キロはちょっと重い」。その生徒さんは、「1キロは1グラムより重く、1トンよりは軽い」とはおっしゃいませんでした。重いものは重いのです。比較の問題ではなく、重いものは重いのです。1キロはちょっと重いのです。
聖書の最後から2番目の文に書いてあることです。「然り、わたし(キリスト)はすぐに来る」(新約聖書ヨハネの黙示録22:20)。しかし、キリストはその後、2000年、来ないわけです。「ちょっとこれ持ってて」といってだいぶ持たせる人がいます。神様の「すぐ」はわかりません。キリストはあした来るのかもしれず、あと8000年後に来るのかもしれません。
「傷ついた」ということも、なかなか言語化が大変な概念かもしれません。ほんとうに傷ついた人は、自分が傷ついたのだという自覚もなかったりするからです。私のnoteの相互フォロワーさんで、福祉の人から「生活保護を受けましょう」と言われるまで、自分が生活保護を受けねばならないほど困っていることに気づいていなかった、とお書きになるかたがおいでになります。「自分は困っている」というのも、自分ではなかなか認識できなかったりする例でしょう。
私は「あっちむいてほい」が苦手であることがなかなか認識できませんでした。しかしこれも、苦手なものは苦手なのです。好きなものは好きと言い、嫌なものは嫌と言い、重いものは重いと言い、寒いときは寒いと言う。頭の痛さも人それぞれです。自分がつらいと思ったらそれが「つらい」ということです。自分の気持ちがそのまま言えることは大切ですね!
