タイミングのよさは神様のお計らい

生まれてからおよそ50年間、私はずっと「タイミングの悪い」人間でした。一例を挙げますね。
教員だったころの話です。最寄り駅のホームにはよくジュースのペットボトルが落ちていました。たいがいは勤めていた学校の生徒が飲み散らかしているのです。私はそれを拾うのを日課としていました。ある日、珍しく私は、自分でもジュースが飲みたくなり、自販機でファンタピーチを買い、ホームのベンチで飲んでいました。ホームのベンチの下には、いつものように、生徒が捨てたと思われるペットボトルが落ちていることに気づいていました。私は電車が一本、行くのを見送りながら、ファンタピーチを飲み終え、ゆっくりとベンチの下へ手を伸ばしました。落ちているのを拾おうとしたのですが、ここで行こうとする列車の車掌さんから、嫌な感じのことを言われました。言われた瞬間はなにを言われたのか、とっさにわかりませんでしたが、電車が行ったあと、わかりました。「捨てるな」と言われたのです。私は、ごみを拾おうとして、ごみをベンチの下に捨てようとしている人に見られたのです。万事がこの調子で、私は「タイミングの悪い」人間です。
あまりにもタイミングが悪いので、私は最近、タイミングの良し悪しは、大船に乗っている人か、そうではなく「どろぶね」に乗っている人か、の違いがあると思うようになりました。私はどろぶねに乗っているので、タイミングが悪いのではないか、と思えるのです。これもだんだん見て参りますね。
私は身近に、大船に乗っていて、すべてタイミングのよさ、「ご縁」で生きている人間を知っています。短期的には失敗でも、全体的によかったことにしてしまう人です。その具体例がなかなか出せないと思いましたので、いくつか、聖書から例を挙げたいと思います。
聖書で「万事が益となる」という言いかたがあります。新約聖書ローマの信徒への手紙8章28節に出る言葉で、パウロの言葉です。私はこの言葉を「すべてよかったことにしてしまう」という意味にとらえています。これは大船に乗った人の特徴だと思っています。
新約聖書ヨハネによる福音書の11章で、イエスのところに、ラザロという人が病気であるという知らせがラザロの姉妹マルタとマリアから来ます。(昔は電話がなかったと思われますので、こういうのは連絡を持って来る仕事の人がいたのでしょうね。)しかし、イエスはここで「謎のぐずぐず」をします。それで、ラザロは亡くなってしまいます。それからイエスは、ラザロとその姉妹のいるベタニアに行きます。マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。マリアも同様に言います。まさに「もしもあなたがいてくれたら、弟は死ななかったのに」という、タイミングの悪さを言っているかのようです。しかし、最終的にイエスは、ラザロをよみがえらせます。有名な「ラザロの復活」のシーンですが、最終的に、すべてよかった話になっています。最初のほうにあったイエスの「謎のぐずぐず」も、結果的によかったことになってしまっています。それがなければ、ラザロの復活というミラクルはなかったことになるでしょう。
このように、よくなかったことを、よかったことにしてしまう人はいます。歌手の森公美子さんは、2006年にお連れ合いさんが交通事故にあわれて障害者となられて以来、いろいろあったのち、障害者の皆さんと歌う仕事もなさっているようです。森公美子さんの新しいお仕事が増えたわけです。これも、万事が益となる話のひとつかもしれません。このようなミラクルはわれわれの身近にも、大きな規模、小さな規模で、ちょくちょく起きているのではないでしょうか。(なお私は2015年に、勤めていた学校の芸術鑑賞で、森公美子さんの出演する「レ・ミゼラブル」を見たことがあります。その話もいずれしますね。)
ヨハネによる福音書は、おおざっぱに読むべき福音書であるという感覚を持つようになっています。それも、いいところに目が行く人が読むと真価を発揮する福音書ではないかとも思っています。ヨハネによる福音書にはいろいろ余計なことも書いてあることは認めざるを得ません。しかし、全体として言いたいことはとてもいいことなので、人の話をおおざっぱに聞いて、そして、よいところに目が行く人、すなわち、大船に乗った人が読むと真価を発揮する福音書ではないか、という気がするのです。(逆に言うと、ヨハネによる福音書は、ひとことひとこと、分析的に読むほどに本質から離れていく書物であるようにも思えますね。)
「いいところに目が行く」ということで、これも大船に乗った人の特徴ですが、運動会の徒競走でも、足の速い人のほうに目が行き、感心して観戦しているのです。私は子どものころ、足が遅く、運動会は死ぬほど嫌でした。徒競走で、びりになって恥をかくのが嫌だったのです。それを「嫌である」と表現することもできないほどのどろぶね乗りでしたが、みんながみんな大船乗りなら、いいほう(足の速いほう)に目が行くはずです。成績もよいほうに目が行って感心し、成績の低いほうの人が恥をかくことがありません。こういう現象から、テレビ番組でいうと、NHKのど自慢で、鐘を1個鳴らして笑っている人、パネルクイズ「アタック25」で、パネルが1枚しか取れなくても笑っている人、「欽ちゃんの仮装大賞」で、不合格でも笑っている人、というのは大概、大船に乗った人であるような気がしています。私の親戚で、1998年ごろ、ウルトラクイズに出て目立っていた人がいたらしいですが、それも私の親戚には珍しい「大船に乗った」人であると言えましょう。これらの番組の多くがいまなくなってきていることは、なんだか世の中がせちがらくなってきていることと関連があるような気もしますね。
話は変わるようで変わっていないつもりですが、再び聖書の話です。かつて私の住むところの近くの教会の牧師さんで、ヨセフとマリアは、ベツレヘムの町で、拒絶されていたのだ、宿屋が満員で泊まれなかったわけではないのだ、と語る人がいました。そのときは、その牧師さんの言うことはわからなかったのですが、いま、以下のように考えれば意味が通ります。
すなわち、イエス出産前のヨセフとマリアは、旅をしていたわけですが、いくらなんでも出産を間近にした妊婦さんが旅をしていれば、宿屋が満員でも、どこかの宿屋は入れてくれそうなものです。それを、どこも満員だということで、入れてもらえなかったとすれば、それは確かにその牧師さんの言う通り、ヨセフとマリアは、ベツレヘムの町で、拒絶されていたと言えるのかもしれません。確かにね。それで、家畜小屋の主人が情けのある人で、家畜小屋には泊まることができたわけです。マリアはそこでイエスを出産し、イエスを飼い葉おけに寝かせました。
そのころ、羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。そこへ天使が現れて言います。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
私は、小さいころから、ものをなくす天才でした。生まれてから50年くらいがたつ今でもそうです。「ものを探すのほど無駄な時間はない」とも言われて育ちました。しかし、イエスは「探しなさい」と言った人です。「探しなさい。そうすれば、見つかる」と言った人です。「探す」とは、本来的に、クリエイティヴな行為だったのです。羊飼いたちは、「飼い葉おけに寝ている乳飲み子」を探しにベツレヘムへ行きました。そして探し当てました。普通、乳飲み子というのは、飼い葉おけには寝ていないものです。飼い葉おけに寝ている乳飲み子は、極めて珍しいでしょう。だからこれが「あなたがたへのしるし」となったのです。
ここまで、このストーリーをおおまかに見てみますと、やはり「タイミングのよさ」が際立っています。ヨセフとマリアがあらゆる宿屋から拒絶されなかったとしたら、イエスは飼い葉おけに寝ていることはなかったでしょう。万事が益となっています。
私は、人生全体を見て「すべてこれでよかったのかもしれない」と思う人生の節目にいる感じがしています。これからもまだまだ人生は続くでしょうが、いい意味で運を使い果たさず、おもてなしの精神、おかげさまの精神で生きて行きたいと願っています。
このように、大船に乗った人は、行動の動機が「恐れ」ではないため、最善の選択ができます。いや、そもそも人生を選択肢の積み重ねととらえておらず、「ご縁」で生きているのでしょう。ラザロの復活も、イエスが飼い葉おけに寝かされていたことも、すべて「ご縁」でした。タイミングのよさであり、万事が益となることでした。こういうのを「神様のお導き」とか「神様のお計らい」というのであろうと思うようになりました。いままで聞いてきたものが、実感を持ってとらえられつつあります。タイミングのよさとは、「神様のお計らい」と言われるものであった。
今年もクリスマスが近づいています。イエス誕生の物語は、壮大なタイミングのよさの話でした。自分がなぜ、生まれてから50年間、タイミングの悪い人間であるのか、もじょじょに言語化されて来ました。残りの人生を、「すべてこれでよかったのだ」と思えるように、おおらかに生きて行きたいです。
