AIの賢さと人間の賢さ

算数・数学の教科書に載っている練習問題って、よくできているなぁ、と感じます。巻末に「答えだけ」が載っています。自分で勉強する人が、「あっていればマル、間違っていればバツ」という「機械的な採点」(答え合わせとよく言われます)で、なるべく、「よく分かっているならマルとなるように」「よく分かっていないならバツとなるように」出題者がかなりよく考えて問題を作っていることがうかがえるからです。
(これは、「ひねっている」わけでも「ひっかけて」いるわけでもないです。「ひねる」「ひっかける」とは、「賢い人がバツとなるように」問題を作ることだったりしますので、むしろここでは「賢い人がマルとなるように」問題を作ってある、という意味です。)
というわけで、これは学習途上にある人が、「あっているかどうか」だけで採点ができるようにしてあるわけですが、逆に言えば、本来、採点とは、そういうものではなく、採点者が「人間の賢さ」を発揮して、「答案を評価する」という行為であるわけです。お医者さんが「診察」するとき、いいお医者さんであるほど、「この患者さんはこう訴えているが、どこが悪いのであろうか」と、人間的な賢さを発揮して判断するように、です。(こういうのをよく「総合的に判断する」という言い方をすると思います。)採点もそうであり、杓子定規に採点基準で「採点」するのではなく、賢い先生が、「総合的に判断して」、いい意味で主観的に判断していると思います。「この答案を書いた人は、全体として間違っているけど、よくわかっているな。マル」とか「この答案は、それっぽいこと書いてあるけど、よく見るとぜんぜんわかっていないな。バツ」みたいな感じの採点かと思います。論文(や芸術作品)を評価するときに似ていると思います。
この仕事をしていて、ときどき「機械学習」を専門とされていたり、これから学びたいという方としばしば出会います。私なりに「機械学習」というものを理解したところを皆さんに話して、おおまかに間違っていないようですので、書きますね。多くの「機械」(コンピュータ)は、人間がプログラミングします。たとえば、車にはたくさんのコンピュータが搭載されているそうです。ブレーキを踏むと、とまるようにプログラミングされているわけです。ハンドルを右に切ると、右に曲がるようにプログラミングされているわけです。機械学習は、これが、機械自身が、自分で自分を「賢くする」のです。「こういうことをやったら失敗するのだな。ひとつ賢くなったぞ」というふうに、自分で自分を「賢く」してゆくのです。それで、ものすごくたくさんの場合について、パターンを覚えて、賢くなっていく。これが、AIの仕組みであるわけです。
機械学習の仕組みがおおまかにわかったところで、AIの賢さと人間の賢さの違いについて述べますね。先述の通り、AIは、何億通りか知りませんが、あくまでパターンをたくさん覚えて賢くなっています。人間も先述の通り、賢いお医者さんの診察のように、あるいは賢い先生の採点のように、「総合的に判断」と言われる、「人間の本来の賢さ」を発揮します。この違いの典型的な例を思いついていますので、挙げますね。
人間の賢さの発揮の場面の典型例として、「あの人に贈り物をしよう。何を贈ったら喜ばれるかな」というものがあります。プレゼントを考えることは、人間の本来の賢さがいります。クリエイティブな発想がいりますね。これをAIが考えるとどうなるか。「年齢がいくつくらいの人で、性別は男性/女性で、こういう仕事をしていて、これくらいの年収の人は、こういうものが好きだろう」というふうに発想してプレゼントを選ぶわけです。しかしそれは贈り物をする態度として、極めて失礼ではないかと思います。その人をパターンに当てはめて見ています。もちろんAIは、「贈り物をして喜ばれた。うれしい」という思いからプレゼントを選ぶわけでもないでしょう。これが、AIと人間の賢さの決定的な違いだと思います。
人間の賢さの基本として「おもしろいことはおもしろいと言える」「楽しいことは楽しいと言える」「嫌なものは嫌」というものがあります。これが、たとえば「こうなったらどうしよう」「ああなったらどうしよう」という「恐れ」にとらわれていると、人間の本来の賢さ(自分の内なる心の声を聞いて動く)が発揮されず、たとえば「楽しさ」「喜び」ではなく、お金の価値を金額で測って、金額を稼ぐことを「幸せ」と勘違いしたりするのでしょう。(この、人間的な幸せよりも金額だけ稼ぐほうに走った人を「金儲け主義」と言ったりします。)
採点とは人間本来の賢さの発揮されるべきクリエイティブな行為だと先ほど申しました。それを、「あっていればマル、間違っていればバツ」という、あえてそういうふうに作った問題(教科書の「よくできた問題」)から「あっていることそのものが目標となる」と、本来の勉強(すなわち「学問」)としては本末転倒が起きます。「賢いこと」よりも「あっていること」が目的となってしまうのです。「成績」とは、「(答えが)あっていること」です。テストでたくさんマルをもらった人が、テストの点数が高く、それをもって「賢さ」と言われてしまうのです。世の中で多く、成績のよさが「賢さ」とされています。これは、「金額」をもって「価値」であると錯覚するのと同じくらいの壮大な誤解だと思います。「成績」をもって「賢さ」とする壮大な誤解ですね。
これはやはり、自分の内なる声に聞けなくなった人間のさまを表すでしょう。「金額」は数(実数)で表され、数直線に乗って比較ができてしまいます。同じように「成績」も数(実数)で表され、比較ができてしまうわけです。
PISAという、国際的な学力テストがありますね。日本の小学生の学力は、世界で第何位だというニュースはときどき見る気がします。しかし、PISAもテストだとしますと、そして、賢い人が「主観で」採点しているのでない限り、人間の本来の賢さは測れていない気がします。(テストに表れない賢さを持つ子供さんを評価できていないと思います。)
この仕事をしていて、テストに表れないタイプの賢さを持つ子供の皆さん、また大人の皆さんに多く出会って来ました。テストに表れる賢さを持つかたにも会って参りました。そして、それは、人間本来の賢さとはかなり違うことも、実感として持っています。
私自身は、小学校では成績もよくなかったですが(整理整頓はもっとできない)、中学から急に成績がよくなり、県で一番の高校に行き、日本で一番と言われる大学に行き、大学院に行き、30歳で就職したら教員という仕事はまったく向いておらず、というふうになっていますが、昨年、IQは92でした(IQは100が真ん中ですので、低いです)。IQが、「社会へ出ての困り具合」を意味するとしたら、なかなか意味のある数字ですが、クリエイティヴィティを測っているのではないことは確かだと思います。東大の入試を採点してくださった先生は、人間的な賢さから、判断してくださったのだと思います(私は、慶応理工学部と東大理科一類を受けましたが、どちらも「そんなんでよく受かったな」という答案だったと思います。採点者の先生が賢くなければ受かっていないと思います)。おそらくAIは私よりずっと高いIQを出すと思います。
私は、人間の賢さで人様のお役に立ちたいと願っています。数学って、人間でしかできないと思います。そして、値段のついていない地球の価値を大切にし、成績に表れない人間の賢さを大切に生きて行きたいです。
