「論語」を書いた人ってどんな人?

ここに、宮崎駿さんの大ファンで、「となりのトトロ」が大好きな人がいるとします。そういう人が、若い人に、「となりのトトロ」をすすめる場面を考えてみます。

「え?『となりのトトロ』を見たことがないの?ぜひ見るべきだよ。すごい映画だよ。おすすめ。絶対に見ろよ。とりあえず見とけ」

と、半強制的に、見ることをすすめるかもしれません。

これに似ているのが「教科書」であり、三平方の定理に感動した人が、若い人に「三平方の定理はおすすめ。とりあえず三平方の定理は習っておけ」と言ったり、あるいは「面積とは広さを数で表したものか。これはすごい発想だな。若い人はぜひ習っておけ」というふうに言うようなものです。そういう「大人からの若い人へ向けた『おすすめ』」というものの集まりが「教科書」というものであるとも言えます。

これは強引な議論に思えるかもしれませんが、どうぞ続きをお読みください。以下のように言えます。あの、猫でもない、タヌキでもない、熊でもないものを思いついて、それを映画にし、しかもそれが何十年も皆さんに愛され続けるという、宮崎駿さんの発想は、改めてすごいものです。三平方の定理を最初に気が付いた人もすごい発想だと言えましょう。(宮崎さんはトトロのほかにも「千と千尋の神隠し」も思いついており、また「魔女の宅急便」も思いついておられます。このようにクリエイティヴィティの高い人は一人で大きいシェアを誇るものであり、数学でもオイラーは一人でどれほどの業績を挙げたかわかりませんし、現代の数学界も、ごく一部の天才が動かしているというのは、大学院生の時代にかいま見た現実です。)

それで、中国の古典である「論語」を書いた人はどんな人か?という問いに移ります。「『論語』とはどのような書物か」ということについては、私は、安冨歩さんの著書『生きるための論語』を読み、また実体験も交えてだいぶ理解したと思います。それは、私の言葉で言いますと、「大船に乗った人、(かちかち山のタヌキが乗ったような)どろぶねに乗った人」「(本当の意味での)お育ちのいい人、お育ちの悪い人」「『人生の羅針盤』が狂っていない人、狂っている人」「自分の内なる声に聞ける人、聞けない人」「器の大きい人、器の小さい人」というような概念について、孔子という人物とその周辺の人物の言動を書くことで、深い考察をした本である、ということです。金谷治訳注『論語』によれば、二千年以上前の書物だそうですが、その当時の、非常に賢い人が、知恵の限りを尽くして制作した「映画」であると言えるわけです。聖書がエンターテインメントであったことを考えますと、おそらく「論語」もエンターテインメントでしょう。

論語は、短い「名場面」の積み重ねでできています。岩波文庫で、だいたい1ページに一話か二話くらいのペースで載っています。(私の読み慣れている聖書で言いますと、だいたい新約聖書の福音書の一話よりも短く、「箴言」の一行一行よりは長いです。)おそらく、当時の人は、一話ごとに気持ちの良いさわやかな感動とともに読んだことでしょう。そして、若い人にこう言います。論語は読んでおけよ。おすすめの映画だ。絶対に見ろよ。とりあえず論語は読んどけ。というわけで、論語は「教科書」となり、「勉強」となったのです。科挙という、古代中国の「受験」において、すでに論語は「勉強ネタ」であったと聞きます。そして、日本でも儒教となって入って来て、おそらく江戸時代の寺子屋でも習ったことでしょう。かつて、私の実家から、非常に古い「大学」「中庸」「孟子」が出て来ました。論語は出て来ませんでしたが、それらは私の祖父の父か、あるいは祖父の祖父が使っていたもので、手で彫った木版印刷でした。そして、現代の高校生も「漢文」を習うと思います。大学入試で漢文は出るでしょう。

いま少し触れましたが、もちろん中国の古典は論語だけではありません。私も詳しくはありませんが、四書五経という言い方は聞いたことがあります。先述の「大学」「中庸」「孟子」と論語を合わせて四書というと思います。先述の安冨さんはその著書のなかで少し孟子を引用し、孟子は論語より少し落ちるという記述をしておられました。つまり、いろいろな映画があり、皆さん、やれ論語がいい、いや孟子がいいと、好きな映画を言い合っているのです。皆さんごひいきがありますからね。「推し」というのですかね。

これは、聖書で言いますと、新約聖書の冒頭に置かれた4つの福音書「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」に相当するわけです。これらは、イエス・キリストの伝記であり、昔の賢い人たちが、知恵の限りを尽くして制作した「映画」であるわけです。皆さん、やれマタイがいい、いやマルコがいいと、好きな映画を言っています。結局、甲乙がつけられないので、4つ収録してあるわけです。

私は、学校図書館の司書の経験があります。毎朝、新聞を取り替えます。これもちょうど4紙ありました。聖書には、同じ記事、たとえば「五千人でパンを食べた話」が、それぞれ違う福音書に出て来ます。これはあたかも、新聞で、同じニュースが違う新聞に出ている状態であり、当然、朝日と読売で、「切り口」が違うわけです。つまり、福音書によって、同じ記事でも、たとえばマタイとマルコでは、切り口が違うのであり、まず書いた人が違いますし、想定されている読者も違うわけです。書かれた場所も、時代も違うようです。

それで、「論語を書いた人ってどんな人?」という問いに戻ります。宮崎駿さんの顔を思い浮かべてください。あの顔ですね。(「あの顔」というと宮崎さんに失礼で申し訳ありません。)宮崎駿さんがどんな顔をしながら「となりのトトロ」を制作していたのか、なかなか想像はつかないと思います。みんなに楽しんでもらうために作った、ということは確かだと思いますが。同じように、三平方の定理を思いついたと言われるピタゴラスさんも、いったいどういう顔をしながら、三平方の定理を発見したのか、ちょっと想像はつきません。それと同じであることに気づいたのです。論語を書いた人は、とても賢い人であったことは分かります。しかし、どういう顔をしながら論語を書いたのか、とても分かりません。どういう人なのか、分からないのだ、ということに気づきました。それはあたかも「となりのトトロ」を見て、宮崎駿さんの顔を想像するようなものです。

クラシック音楽の世界でも、とても明るく楽しい曲があったとして、それが、作曲者が絶望のどん底で書いたと知って驚くことがあります。また、ご自分の好きなマンガを思い浮かべていただきたいのですが、それを書いた作者はどんなだろうと思って、想像を絶するような作者で驚くことはあるかと思います。(たとえばファミリーマンガである「サザエさん」の作者である長谷川町子さんが独身であったと聞いて驚くような感じです。)

私は、「マルコによる福音書」の作者が、どんな人であるかと、想像することがありました。いまや分かったことは、マルコによる福音書も、ものすごく賢い人が書いた書物だ、ということは分かるのですが、どんな人が書いたか、というのは、決して分からない、ということでした。

ここまでで「論語を書いた人はどんな人?」という話は終わりますが、もう少し続けさせてください。「となりのトトロ」が「勉強ネタ」になりますと、おそらくテストがあります。「サツキとメイの父親の職業は何か」とか「サツキとメイの母親の入院している病院の名前を答えよ」という問題が出て、マルバツがつけられるようになります。そして、論語が生命力を失って久しいように、「となりのトトロ」も生命力を失うでしょう。

しかし、現代でも、おそらくごくわずかですが、高校で漢文を習って、その内容に感動する高校生はいると思うのです。世の中では、なぜ漢文を習うのか(漢文を習う意味はない)という議論がときどき聞かれますが、ここまで述べましたように、本来は「大人による若者へのおすすめ」であるわけです。

同じように、ごく少数でしょうが、「面積」を習って、「面積の求め方」をたくさん覚えて、いろいろな問題が解けるようになり、テストでいい点を取って成績がよくなり、いずれ希望する学校へ受かる、という方向というより、「面積とは広さの数値化である」という発想そのものに感動する小学生もいると思うのです。極めてわずかでしょうが。

私は、受験指導は苦手です。その代わり、当教室では最近でも、最小公倍数、最大公約数という発想そのものに驚き感動する授業があり、また、分数の掛け算、わり算について、本質を追求し、先人の発見に感動する授業がありました。星くず算数・数学教室は、そういう教室です。これからもそういう教室であり続けたいです。本日は以上です!

目次