宗教よりも理性が優先したある信仰の先輩

私は2000年の12月、東大数理の修士課程のときにキリスト教の洗礼を受けました(=キリスト教の信者となりました)。そのころ教会で出会った高齢のご婦人について、いまにして思えば、極めて理性のすぐれたかたであったと思い出されますので、その方についての思い出について書きたいと思います。

私がはじめてその方(Sさんとします)に出会ったのは1998年か99年だと思います。私はそのころ22歳か23歳くらいで、Sさんが83歳であったと記憶しています(Sさんは自己紹介のときに、83をひっくり返して38歳とおっしゃった)。Sさんは若いころ病気をなさって、婚期を逸されたみたいで、独身であられました。30歳ごろ、キリスト教と出会ったそうです。ユーモアのある穏やかな方で、なかなかおしゃれでもあられました。敬虔なクリスチャン、という言葉がそのまま当てはまるような雰囲気のかたでした。まもなくSさんは入院なさいました。私はSさんにひんぱんに会いに行きました。私は「高齢の婦人をひんぱんに見舞う、感心な若者」と見えていたようですが、実際には私はSさんの話をうかがいに行っていたのです。いま思い出すエピソードがあります。Sさんは、同室の人から借りた、宇宙のナンタラという怪しい本を読んでおられました。そして、聖書をさし、私はこちらのほうが正しいと思う、これ(聖書)をしのぐものが出ない限り、私は乗り換えないと思う、というようなことをおっしゃったのです。私はそのころ道を求める者でしたので、85歳で、圧倒的な人生の先輩で、いま考えると信仰歴も半世紀になるSさんが、いまでも道を求めておられることに感動したものです。しかし、最近、いや待てよ、と思い出したのです。Sさんは、理性、すなわち「人生の羅針盤」とでも言うべきものが極めて正確だったのです。のみならず、聖書よりも、自分の判断(理性)を優先させておられるのがいまわかります。聖書が絶対であると考える信者は、狂った信者(「理性の狂った」信者)かもしれません。医者の言うことが権威となってしまう患者も同様です。私は当時の日記を見るにつけ、自分が、理性が狂っていたと痛感しますので、改めてSさんのことを思い出すわけです。

Sさんは、牧師の説教もしばしば、うとうとしながら聞いておられたらしいことは、牧師から聞いたことがあります。ここにも、Sさんが宗教の信者として「健全」であるしるしを見る気がします。

Sさんは間もなく退院をなさいました。しかし、もうSさんの家はありませんでした。高齢かつ単身であったSさんが再起不能であると判断した親戚の人が、Sさんの家を売ってしまわれたようでした。Sさんは、姪御さんを頼り、東京を離れ、JR高崎線でしばらく行ったある町の小さな借家で、姪御さんと一緒にお住まいになりました。ときどき訪問礼拝に行ったものです(牧師と信徒がたずねて行く小さな家庭集会)。姪御さんは明るく穏やかな方でした。Sさんは大きな仏壇のある部屋で、静かに微笑んで座っておられたものです。讃美歌を開きながら「すっかり(ぱっと開きたいページが)開けなくなった」とおっしゃっていたのを思い出します。

私は学生時代に長い病気をやりましたが、週報には再びSさんの家庭集会のことが載っていました。Sさんはその地で新しく教会に通われ、その新しい教会からも出席者が3名いたそうです。これは、いま考えると、Sさんが人徳者なので、新しいお友達が3人もSさんのお住まいに行きたくなったということだとようやく理解しました。

Sさんは、その地で、あと十数年、姪御さんと住まわれました。私はすっかり遠くに住んでごぶさたしていましたが、Sさんは99歳のとき、年賀状に「来年は年賀状が出せないと思います」と書かれました。実際、その年のうちにSさんは亡くなりました。これも考えてみますと、Sさんは自分が衰えて行って、翌年の正月まで生きていないことに気づいておられた、ということだと思います。理性のすぐれた人の特徴として、自分の人生が一度しかないことをよく認識しているということがあるということに気づかされるにつれ、Sさんは最後まで理性が働いていたと改めて感じます。もうSさんが亡くなって十年くらいにはなると思います。

Sさんが、まさに私の出会った83歳くらいで書かれた文章があります。当時の教会の創立六十年誌に載ったものです。「祈りって何?」という文でした。いま、実際にあるわけではなく、きちんとした引用ができませんが、以下のような内容です。Sさんは、先述の通り、若いころは病気であられ、屈辱的な半生を歩んで来られたと書いてあり、そして、30歳くらいである小さな教会の集いに行ったそうです。そこで、皆さんが、Sさんが病気であることを知り「Sさんのために祈りましょう」と言ったそうで、Sさんは「祈りって何?もっと具体的な励ましの言葉が欲しい」というように思われたそうです。このあと、文章は信仰の喜びを語るほうに向かいますが、この文章の題は「祈りって何?」です。これも最近、気づきました。Sさんはあくまで「理性」が優先する人だったのです。あらゆるものより自分の思い、自分の感覚が優先する人は、宗教も「束縛」でなく、「アドバイス」に聞こえるのです。これが健全な宗教信者の姿でした。

学校のつまらない授業でうとうとする学生の皆さんに栄光あれと思います。「勉強しなさい」も「年寄りを敬いなさい」もすべてアドバイスでした。本来、人間を自由にするはずの宗教がしばしば人を束縛するものになっているのが「危ない宗教」であり、統計的には(そうです、統計学は理性の数学)、宗教の信者に「危ない」(理性の狂った)人が多いのは確かだと思います。改めてSさんを尊敬し、見習いたいと思います。

「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)という聖書の言葉の真意がようやく実感されつつある昨今です。

(アイキャッチ画像はSさんではないです。無料画像のサイトからのいただきものです。感謝。)

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