聖書の読み方、および「尊重力」について

文章を書く、とくに文章を書き始めるのにかなりのストレスがあります。それでも、書いてみます。

論語や聖書の読み方についてです。

これは、私にとって、いい意味で聖書より少し距離のある、論語を例に取りたいと思います。「孔子先生は絶対に正しいことをおっしゃったのです」という読み方が、本来の素直な読みを阻害しているという現象です。これは、「イエスさまはとても正しいことをおっしゃったのです」あるいは「パウロ先生は非常に正しいことを述べています」という命題でも同様なのですが、論語で例を出します。

子曰く、古(いにし)えの学者は己れの為めにし、今の学者は人の為めにす。(憲問第十四)

と書かれています。これは、孔子が「うまいこと言った」場面を切り取った、映画のワンシーンのようなものなのです。いにしえの学者はおのれのために学びました。今の学者は人のために学んでいます。ここで、「いにしえ」はいい意味で言っており、「今」というのはよくない意味で言っています。論語の時代は都市化が始まっていたという説に基づき、いにしえをいい意味に、今を悪い意味で取ります。そして、学ぶとはどうも論語のなかで生きると同義のようですので、おのれのために学ぶ、とは、おのれのために生きる、という意味であり、これがいい意味で書かれています。人間の理性は、生きることが楽しいと言っているのですから、自分のために生きるのはいいことです。それで、昨今の学者は人のために学んでいます。ほめてもらうためでしょう。これは、人生を人生ゲームと錯覚しており、人から評価されるために学んでいるわけです。これは確かに孔子の名言です。「孔子、うまいこと言った!」。しかし、これを以下のように、逆にするとどうなるでしょうか。

子曰く、古えの学者は人の為めにし、今の学者は己れの為めにす。

これは、いかにも人が言いそうな、悪い意味で常識的な、説教臭い言葉になります。昔の学者は人のために学んだものだ。「人のため」はいいことに思えるからです。それで、いまの学者は、自分のためにしています。「自分のため」はよくないことに思えます。孔子は、この逆を言ったのです。一見、常識の逆を言うことで、それでかえって真実を伝えるという、逆説的で、瞬間的なおもしろさです。それがこの言葉のみそである気がします。ここまで、論語についてあまり詳しくない私が、偉そうに講釈を述べてきました。じつは、この言葉の解釈そのものが、本日、私の言いたいことではありません。ここからだんだん本題に入ります。これは、聖書を例に取ってもよかったのですが、かえって距離のある論語のほうがよく見えるため、論語を例にとっているまでです。(聖書でも、あまり詳しくない人の解釈のほうが、自由で、本質をついている場合があります。)

それで、この言葉が、論語のどこに載っているか、とっさにわからない私は、インターネットで検索しました。すると、いろいろな人が書いた解説が目に入ります。そして、だいたい以下のような現代語訳による解説が目に入るわけです。

先生が言った、いにしえの学者は自己研鑽のために学んだ。いまの学者は人に見せびらかすために学ぶ。

それはその通りで、ひらたく解説調で説明したらまったくこの通りである現代語訳です。しかし、これですと、もともとの言葉にあった、瞬間的に出ていた動きのあるおもしろさが消えています。これは、「孔子先生は絶対に正しいことをおっしゃったのです」という前提の読みが、かえって本来の素直な読みを遠ざけている現象であると思うわけです。ここで、先に、こういう本来の素直な読みをそれる弊害について述べます。「原文のニュアンスを読みそこなったんですね、もったいないですね、はっはっは」ではすまないのです。論語の誤読が後世に与えた悪影響、は私は具体的にまったく詳しくないです。しかし、聖書についてはある程度、知っています。旧約聖書の誤読の歴史、それは、「殺すな」「盗むな」という教えが、アドバイスであった時代(それは前に論じました)から数世紀がたち、それらの掟すなわちアドバイスが、国を挙げての束縛であった時代が、イエスの生きた時代であるわけです。イエスの時代は(旧約)聖書の誤読の弊害が国を挙げて起きていた時代だったと考えられます(イエスはそれに反抗し、反抗しすぎて処刑された)。また、もう少しあとの時代で、「十字軍」のようなものをわれわれは知っています。聖書の誤読が起こした戦争があるわけです。これは、現代でもあるでしょう。そういう世界規模の話をするまでもなく、聖書の誤読で、身を滅ぼす人はいくらでもいるわけです(自分にとっての自分は1分の1で、世界のすべてですので)。聖書(論語)の誤読は、ニュアンスを読みそこないましたね、はっはっはですまないという話を先にしました。話を戻します。

先ほど触れました通り、この種の言葉は、絶対の永遠の真理を述べたわけではなく、瞬間的な名言をとらえたものです。つまり、揚げ足は取られまくりの言葉です。それを「孔子先生は絶対に正しいことをおっしゃったのです」という前提で解釈するならば、無理が起きます。揚げ足を取られないように、すなわち、「論破」(この文章のなかで私は、論破という言葉をすべて悪い意味で使うことにします)をされることを想定して、「論破返し」のように解釈するのです。こうすることによって、本来の素直な読みから遠ざかります。この文は逆説的な名言ですからなおさらです。私は二十年以上前に、「歎異抄」の、悪人正機説を書いた文の、こういった「ひらたい」解説を読んだこともあります。それも「親鸞聖人はとても正しいことをおっしゃったのです」という前提が、素直な読みを遠ざけ、原文を歪曲しているのでした。

少し話がそれます。このような「人間力の賢さ」を発揮する学問の分野では、人間に根本的に与えられた知恵である理性が「生きることは楽しい」と言っていることに由来するわけです。これに対して、私が大学院で専門とした数学という学問は、純粋に理屈だけでできています。人間がどう思うかに関係ないのです。つまり、孔子なりイエスなりパウロなり親鸞なりが言った言葉を「これこそ永遠に絶対に正しい」と主張することは、それらの「名言」が、数学の定理であるかのように主張することになります。そうではないと私は言いたいのです。イエスの言葉は数学の定理ではない。そして、イエスの言葉なり、孔子の言葉を、数学の定理かのようにとらえることが、先に述べたもろもろの弊害を生みます。

(歌の歌詞は、しばしば瞬間的な真理を伝えています。それを、熱狂的なファンが、永遠に絶対に正しいと言い張り、それをあたかも数学の定理のように主張する現象に似ています。ついでに申しますと、スピノザの「エチカ」は、そのような人間的な真理を、数学的な定理のように述べたものだ、ととらえることもできると思います。ここで気づくのは、スピノザさんもそれはネタのように自分の説を数学の定理のように述べているのであって、それは著者自身もよくわかっていることだろうということです。)

少し例を補足します。

子曰く、巧言令色、鮮なし仁。(学而第一)

これは、言葉が巧みで、表情がよいというやつに、ろくなのがいない、と孔子が言った言葉です。これに対して、それはまさにそうだ、その通りだ、孔子、さすがの名言!というべきものであり、これは永遠の不変の真理というわけではありません。私にも経験があります。言葉が巧みで表面的な笑顔をした、ろくでもないやつがいろいろ思い出されるわけです。しかし、これは、先述の通り、瞬間的な名言であるため、揚げ足は取れます。私の知る人で、福祉の手厚い立派な人ですが、初めて来た人には、作った笑顔をする人物がいます。つまり、巧言令色ですが、仁である立派な人の存在を私は知っているわけです。この孔子の言葉を永遠不変の真理のようにとらえると、いま私が述べたような揚げ足を取ることができてしまいます。そうはされたくない「孔子絶対信者」が、そのような論破に対してあらかじめ論破返しをするべく解釈すると、この言葉の素直な読みからそれるでしょう、と私は言いたいわけです。

それでは、なぜ、「孔子先生は絶対に正しいことをおっしゃったのです」「イエスさまは絶対に正しいことをおっしゃったのです」という前提の読みにいたるか、ですが、私は現状で、以下のように考えています。

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』に書いてありましたが、ある人の全体を見ることを、尊重というそうです。これに対して、その人の一部だけ、長所だけ見て、それを気に入っている状態を、執着というと思います。尊重は利用と関係がない、とフロムは書いていました。確かに、私の意見、たとえば、私の聖書の解釈について、私に無断で、どこかで受け売りをしている人がときどきいたりするようです。そういう人は、私を利用していますが、それは私を尊重していないから、そのようなパクリができてしまうわけです。それは執着でしょう。

ある人の欠点だけ見ているのは最悪だと言えるでしょうが、いま述べましたように、その人の長所だけ見ているのもまた執着でありました。「人気がある」「モテる」というのは「執着ファンが多い」ことを意味します。もちろん、執着ファンが多くなければ人気商売は成立しませんし、人間には執着する権利があると思います。しかし、上で見ました通り、尊重とはその人の全体を見ることであったのです。(その人の欠点だけ見ず、その人の長所を見ましょう、とときどき言われますが、それは、どちらともその人の一部しか見ていないのだとしたら、いずれもその人を尊重してはいないとも言えましょう。)私はこうして、めっきり文章を書く能力が落ちましたが、それで、自分が、皆さんの、いわば「尊重力」で私の書いた文章をお読みいただけるのだ、という当たり前のことに気づかされつつあります。尊重力とは妙な言葉かもしれないのですが、普通の言い方で「理解力」です。ただ、理解力と言いますと、学校で、先生の出した問題を、すばやく正確に解いて、成績がいいこと、をさすようなニュアンスがあると思われます。私がいう理解力(尊重力)とは、人の話を最後まで聞いて、どういうことを言っているか、わかりましたよというときの理解力であり、それは、その人を尊重するからこその理解力であるため、尊重力と呼びたいのです。私は、説明力を失って、皆さんの尊重力で助けていただいていたことを認識するようになりました。助けてもらわねばならない状況に置かれて初めて、自分が助けてもらっていたことに気づかされるのです。(逆に、私がきちんと説明し得ていたと思っていた場合でも、私の言うことは、屁理屈にしか聞こえていないことが多くあることにも、ここ最近、気づかされています。やはり、話というのは、聞く人の理解力、すなわち、尊重する力で、聞いてもらえるのです。)

つまり、その人の欠点まで含めて見ることが尊重であるわけです。以下に、ドラえもんを例に取ります。

ドラえもんは、ねずみが非常に苦手です。しかし、ドラえもんが、ねずみが苦手だからという理由で、情けない、ダメなやつだ、という評価をくだす人間は、少なくともドラえもんの周囲にはいません。ドラえもんは、なぜかやたらとどら焼きが好きでよく食べていますし、やたらねずみが苦手ですが、ドラえもんはポケットから道具をいろいろ出す、すぐれた(というのでしょうか)ネコ型ロボットであると周囲から評価されています。ドラえもんに、ねずみ恐怖症を克服する特訓を強いる話は聞いたことがないと思います。(ドラえもんに詳しい人に話を聞きましたが、藤子不二雄さんもこのような話は書いていないようです。書いていても不思議はありませんが。)それは、ドラえもんを尊重したことにならず、ドラえもんのよさを引き出したことにもなりません。これが尊重ということであると私は理解しています。

孔子もイエスも、尊重すべき人なのです。すなわち、孔子も人間であります。長所もあれば、欠点もあります。それを、孔子先生は絶対に正しいのです、欠点はありません、というふうに主張するとしたら、それは孔子に執着しています。これは、イエスやパウロについても同様です。イエスも人間であり、長所もあれば欠点もあるのです・・・このように書いて、儒教にはいい意味で距離があるものの、キリスト教は身近である私は、すぐに次のような反論を想定します。イエスは神の子であり、欠点などない。イエスさまは一切の罪を犯さなかったのだ・・・。それは、宗教では「教義」と言われるもので、これに反すると、すぐに異端であるとレッテルを貼られたりします。難しいですね。儒教における孔子も同様なのでしょうか。あるいは、先述の、浄土真宗における親鸞も同様かもしれません。イエスを、すべて長所だけからできた人間であると主張するのは、私には執着に見えます。宗教の教義というものは、それが行動の基準となってしまっているという点で、聖書が絶対である、すなわち、人生の羅針盤(理性)に沿って生きるべきところ、人生の羅針盤があまり正常にはたらかない人が、聖書なり、教義なりを基準として生きている、という姿に見えます。これは前に述べました、医師の言うことが権威となってしまって、絶対のものとなってしまう人にも似ています。自分の羅針盤が正しくないばかりに、他の基準に頼る人の姿です。これは、執着であるわけです。

世に「聖書の読み方」という本は多いですが、この文章は、私にとっての「聖書の読み方」という内容の文章です。聖書はあくまでアドバイスの書であって束縛ではなく、自分の理性、すなわち人生の羅針盤で生きて行くべきである、ということです。

だいたいこのへんまでですが、少し補足します。アドバイスというのも、あくまで人間がするもので、絶対に正しいわけではありません。医者の言うことが絶対でないように、孔子やイエスの言うことも絶対でないわけです。しかし、人の全体を見ることを尊重といいます。イエスさまは絶対に正しい、というのは、イエスを尊重していないと感じるわけです。それはイエス執着であり、しばしばイエス利用に向かいます。きちんとイエスを理解したことにならないわけです。ある人物が宗教の教祖とまつりあげられて、「あやしい宗教」となっていく過程で、このようなことが起きるのかも、と思った次第です。そして、新約聖書というのはそこが入れ子の構造になっているわけです。旧約聖書が先にある「聖書」であり、それが束縛となった時代の知恵の書かれたものが新約聖書ですから。すなわち、聖書というものとの付き合い方に触れているところが新約聖書の特徴のひとつであるともいえると思うのです。

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