東大を振りかざす人と振りかざさない人の違い(私は残念ながら振りかざす人)

比較的最近、X(ツイッター)で、次のような興味深い2つのポストがあったのです。字句通りの引用ではなくすみませんが、だいたい以下のような趣旨でした。
第一のものは、東大を出た人は、必ずそれをちらつかせるから不愉快である、というものでした。
このポストがどれくらい「いいね」を集めていたのかは分かりません。私が見たのは、この発言を引用している、以下のような第二の発言です。すなわち、自分も東大を出ているが、この発言はまったく見当はずれである。東大を出ていることをちらつかせたら、嫌われることが必定なので、まず東大を出たことをひけらかすわけはないし、むしろ、その場の話題が出身大学の話にならないよう、細心の注意を払いながら生きている、というものです。このポストにたくさんの「いいね」がついているところを私は見たわけです。
対照的な2つの発言です。私は何十年か前に、以下のような本の記述を読んだことがあります(すべて記憶による引用ばかりで申し訳ありません)。「頭の悪い人の話し方」として「私が本郷三丁目の駅にいたとき」という言い方が挙げられていました。これは、東大の最寄り駅である、本郷三丁目の駅を出すことによって、自分が東大を出ていることをちらつかす言い方です。こういう言い方をする人がいて、不愉快な思いをなさった方も多いのではないでしょうか。先ほどの2種類のポストで言いますと、第一の発言のほうです。
なぜ、この相反すると思われる、二種の傾向があるのでしょうか。東大を出て、ことあるごとにひけらかす人と、その逆で、言わないように言わないように気を付けている人。私が直観したのは、この二人の人は、おられる環境が違うのです。以下に、差別的に響く表現が出るかもしれませんが、そのような意図はないつもりです。すなわち、第一の方は、社会の層が低めのところにおられる方で、第二の方は、社会の層が高めのところにおられる方だと思われるのです。
私は現役の東大生だったころ及び東大院生だったころ、それ(東大の学生であること)はひけらかさない人間だったようです。周囲にいる、東大と関係のない人の証言からも、そうだったようです。私は30歳まで東大の院生であり、そのことをひけらかさないようなタイプの人間のままで来ました。30歳から、中高の教員になりました。なってすぐ、教員は向いていない仕事であることが明らかになりました。いま思えば発達障害である私にとって、教員という人間力の仕事は、とうてい向いていない仕事だったのです。最初の数か月で、かなり初歩的な失敗をたくさんして自信喪失していた私は、夏休みに行われた、その地の教員の初任者研修(はじめて教員になった人の受ける学校をまたいだ研修)で、何人かの、当時の初任の数学の他校の先生と同じチームになりました。皆さん私よりお若く、20代であられただろうと思います。私は、自信のなさを正直に言いました。それでその場でどういう扱いになったかと言いますと、本当にできない教師として扱われたのです。確かにできない教師でしたから、その通りの扱いを受けたのですが、学歴に不相応な扱いを受けたと直観した私は、この数年後にあった、経験者研修という、何年か教員をやった人の研修に行ったときは、上手に東大を振りかざし、今度はなめられませんでした。ある有名な大学の微分幾何の修士課程を出た先生(その高校で、受験指導に特化した活躍をされていたらしい)が、目をまるくして感心なさいました。こうして私は、30歳から、大学院の時代よりは、社会の層が低めのところに行き、それで、なめられないように、学歴をちらつかすすべを自然に身に着けて行ったのでした。
つい最近の話をします。発達障害の当事者会に行きました。どちらかというと、社会で認められない思いを抱えている、数人のおじさんの会であり、勤めておられる方もいますが、仕事を失って生活保護を受けておられる方などもいらっしゃる集まりです。ある方が、眠れないという悩みをおっしゃっていました。私は、自分の最近の解決策である、「眠れない晩は読書をする」というのを発言しようとしました。ところが、私はいつから自分が眠れないのか、話そうとして、それは博士課程1年のときの大きなダウンからなので、そのころの話からしました。それで、東大は振りかざさないように気を付けていたのですが、「大学院」という用語は言ってしまいました。「数学者」というキーワードも言ってしまいました。そのあとも、情けない限りですが、その種の言葉が私の口からもれ、不快を示すと思われる動作をされた方がおられ、私は我に返りました。私は、振りかざしている!まったく無自覚に!
私が、社会の層が低いところに来て20年、私は無自覚に、すっかり「振りかざす」人間になっているのでした。これは、習慣が身についてしまった状態であり、あたかも空気を吸ったり吐いたりするように当たり前に身についてしまった習慣です。「ドラえもん」に出てくるスネ夫は、ことあるごとに、自分のコレクション等を自慢していますが、彼の感覚も分かった気がしました。彼もおそらく無自覚です。自慢している、ちらつかせているという自覚はないのです。(わざとやっているように見えますが、おそらくそうではないという気づきです。)先ほどの「本郷三丁目の駅にいたとき」という言い方をことあるごとにする人というのも、やはり呼吸をするように言っておられるのであって、ちらつかせている自覚はないのでしょう。これが、属する社会の層が高めで、学歴をちらつかせていると思われて嫌われることを恐れるような層におられる方は、ちらつかせていると思われないように気を付けることが習慣になっておられるのでしょう。
というわけで、最近、その発達障害の当事者会で、じつに情けない自分の習性に気づいたという次第なのですが、ようやく気がついたので、これは改めるチャンスだと思ったわけです。これが、東大を振りかざす人と振りかざさない人の違いについて、私が最近、認識したことです。そして私は残念ながら振りかざす人間なのです。「自慢をしない」「差別をしない」というのは、本当に難しいことだと思い知った次第です。
