母校の創立120周年記念演奏会に参加

これは私が学部4年のとき、1998年(平成10年)のときの話です。まだ統合失調症の影響で楽器がへたになる前の話です。昔話ですが、よろしければどうぞお読みくださいね。

当時はメールなどもほとんどない時代です。院試(大学院入試)を控えた私に、ある日、電話がかかって来ました。高校オーケストラの後輩からです。母校の120周年記念演奏会に出演しないかというお誘いでした。本番は院試のあとです。私はそのころ、院試に向けて、精神が不安定な時期を過ごしていました。躊躇しました。しかし、ありがたいお声をかけていただきましたので、出演させていただくことにいたしました。ここにそのときのプログラムと日記があります。そこからかいつまんで書きますね。

院試には無事、受かりました。本番は11月3日、文化の日でした。日記は11月1日から新しいノートになっており、11月1日(日)にはすでに帰省して最終練習に臨んでいますので、そのへんから覚えていることを書きます。

最初にプログラムを書きますね。

校歌

モーツァルト フルート協奏曲第2番ニ長調

シューマン ピアノ協奏曲イ短調より第1楽章

シューベルト 交響曲第8番ロ短調「未完成」

ヘンデル 「メサイア」から「ハレルヤ」

この高校には、戦後まもなく着任なさった偉大な音楽の先生がおられました。初代の先生です。この先生が、この高校のオケの基礎を作られました。この日は、シューベルト以降の後半のプログラムを指揮なさいました。当時、86歳、この先生の指揮者としての最後のステージとなったようです。終始、立って指揮をなさいました。私が経験したなかで最も音楽的な指揮者であられたと思います。フルート協奏曲のソリストは私のフルートの先生(卒業生です)でしたが、先生も、この初代の音楽の先生(当時の音楽の先生)は非常に尊敬しておられました。練習の休憩中に両先生が歓談する姿も拝見したものです。

私が現役高校生だったときの音楽の先生は第3代の先生です。この演奏会では、冒頭の「校歌」を指揮なさいました。フルート協奏曲の指揮が第4代の音楽の先生で、当時の音楽の先生。第2代の先生は、私が現役生のころにお亡くなりになっていました。シューマンの指揮者は、地元の音大を出た卒業生の指揮者の先生です。シューマンのソリストは、私の後輩でした。当時、音大生。のちにプロになったと聞きます。

最初の校歌は、当初の予定ではスッペの「軽騎兵」序曲でした。まさに私は現役生のころ、この第3代の音楽の先生の指揮で「軽騎兵」序曲の1番フルートを吹いたものでした。このときはピッコロで吹くことになっており、張り切っていたのですが、「軽騎兵」案はわりと最初の段階で却下となり、「校歌」となりました。この校歌は、戦後、制定されたものと思われますが、よく甲子園などで耳にするような元気のよい歌ではなく、なんと申しますか讃美歌のような荘厳な歌であり、たとえば最後に校名を連呼するようなこともなく、およそ校歌らしくなく、私は在校生のころから気に入っていました。

(ここで校歌に関する脱線。私の「校歌歴」を書きますね。幼稚園の歌はちょっと変わっていて覚えられないまま卒園しました。小学校の校歌は、過去の校長先生の作曲で、いまでも歌える名曲です。中学の校歌は覚えていませんが、それに和声をつけて中学のときの音楽の先生にほめられた記憶があります。高校はこの校歌のほか、おそらく明治時代からあると思われる応援歌も、いい意味で軍歌のような勇ましい曲調ですばらしいのでした。東大の校歌と応援歌はいまいちだと思いました。早稲田の「都の西北」や「紺碧の空」は名曲だと思いますけれども。勤めていた学校の校歌もいまいち。星くず算数・数学教室の「校歌」は・・・。考えたことがなかったです。作ろうかな(笑))

この校歌のオーケストレーションも、その初代の音楽の先生によるものなのです。私も、在校生のころから、入学式や卒業式で、何度も演奏して来ました。荘厳な曲調にふさわしい、すばらしいオーケストレーションでした。確か、それこそ野球部の甲子園出場(しませんでしたけど)のためかなにか?合唱部と録音した記憶があります。ここの野球部は、おそらく戦前の旧制中学の時代に1回、甲子園に行っているようであり、もしも2024年現在で甲子園出場を果たすと、95年ぶり2回目の出場とかになるはずです。

日記によると、本番当日、いきなり乗る(演奏に参加する)ことになったようです。1番フルートで乗ったようです。この日、私は調子が絶好調で、しかも、あがらなかったのです。この日、私に目立ったソロはありませんでしたが、非常に調子がよかったことはよく覚えています。

2曲目のフルート協奏曲の話に移ります。モーツァルトのフルート協奏曲第2番には、オーケストラパートにフルートがないので、必然的に私は降り番となります。ソロは先述の通り私の先生でした。この曲はニ長調ですが、第2楽章でト長調となり、ホルンはト管となります。最も感動的な以下の場面で、ホルンは高いレを出し、それがソリストのレとユニゾンとなります。私の先生はこの曲を、外山雄三さんの指揮する、当時、先生の在籍したある名門プロオケで演奏したこともあるわけですが、このときも、このホルンのレは、先生はホルンをにらみながら「外すなよ!」というプレッシャーをかけながらの練習でした。恐ろしい先生ですね(笑)。しかし、このとき1番ホルンを吹いていたおじさんは、そのようなプレッシャーにはまったく負けず、ひょうひょうとレを吹いておられました。

(ごめんなさい。たった7小節なのに、ツッコミどころのたくさんある楽譜で・・・。いちばんは、ホルンがト管であるべきところ、私の楽譜作成ソフトであるfinaleの操作が分からず、へ管で書いたところです。ほかもろもろです。くだんの箇所は、この楽譜で5小節目の頭です。)

このホルンのおじさんは、とてもにこにこして人懐こい感じのかたでしたが、じつは、高校の先生であることが本番当日にわかったことが日記に書いてあります。私は当時、22歳です。私のような若造に気さくに声をかけてくださるかたは、普段から若者と接している高校の先生であった、ということです。

先生は、当時、あるフィンランド人の作曲家でピアニストのかたと仲が良く、よくご一緒のコンサートなど聴いたものです。そのかたが、この演奏会のためにカデンツァを作曲する、との話でした。先生はレッスン中に、高いレが出てくるんだよ、と言いながら、吹いてみせておられました。ここにあるプログラムにもそのように書いてあります。しかし、本番当日に先生が吹いたカデンツァは、よく聴くものであったと思います。その作曲家の先生の作品は間に合わなかったのでしょうか。その作曲家の先生は、2016年くらいに亡くなったそうです。

先生は、こういう協奏曲演奏は、暗譜で臨むのでした。ところが、当日は第2楽章で「暗譜ミス」を犯しておられました。私は舞台袖で聴きながら、思わず笑いそうになったものです。

シューマンの協奏曲の話に移りますね。これは、練習は何度も吹きましたが(なにしろこちらは学生です。皆さんは社会人であることも多い卒業生なのです。われわれ学生のほうがヒマです)、本番は乗らない予定でした。本番直前、2アシ(2番アシスタント)として乗ることになり、スコアを買いに行こうとして楽器屋さんに在庫がなく、スコアなしで、パート譜をよく見て、落ちないように気を付けながら本番に臨みました。ソリストは「大変すばらしかった」と日記に書いてあります。

プログラムによると、このシューマンのピアノ協奏曲は、この県では、この初代の先生の指揮で初演されたとのことでした。

2人のソリストのアンコールは、グルックの「精霊の踊り」でした。この曲は本来、フルート2本と弦楽合奏のための(と言ったら語弊があるかもしれませんが、実質的にそうです)オケ作品であり、これをフルートとピアノのために編曲した楽譜はおもにタファネルのものとゴーベールのものがあります。この日、いずれの編曲が用いられたのかわかりませんが、この日よりあと、私が先生からこの曲を習ったときはゴーベール版でした。このソリストのアンコールもすばらしいものでした。

客席には、多くの友人がいました。乗っていたなかにもたくさんの友人はいましたが、客席にもたくさんの友人がいたのです。そのうちのひとりが、「精霊の踊り」を気に入りました。当時はYouTubeなどSNSもありません。私はその友人に、ニコレのフルート、リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団のCDを貸しました。貸したまま返って来なくなり、私は買い替えたものです。

当時の仲間にはたくさん会えたものです。日記にはいちいち、その大学名と、つぎの演奏会のプログラムが書いてあります。行ければ行きたいものばかりでしたが、うち、ある後輩の演奏会には実際に行きました。東京から離れた町の大学のオケであり、非常に鮮明な思い出となっています。いずれ、そんな演奏会のことも書けたら、と思いますが・・・。

日記にも書いてありますが、この演奏会は、コンサートというよりも、「舞台上でやっている同窓会」という趣なのでした。

休憩後、ついに86歳の初代の先生の指揮となりました。練習のときから、ただものではない指揮者でした。「未完成」は、プログラムによると、この初代の先生の指揮で最初に演奏された交響曲とのことでした。この10年前にも、この高校の「創立110周年記念演奏会」があり、それは私は中学生(12歳。22歳の10年前だから)で聴いています。やはり私の先生のソロによる協奏曲があり(記憶によるとこのときと同じモーツァルトの2番)、そしてドヴォルザークの「新世界」が演奏されたものです。私が「新世界」を生で聴いた最初かもしれません。先生はレッスンで、初代の先生が、(卒業生の)皆さん、それぞれが自分の「新世界」像を持っていて大変だ、と言っていたことをおもしろそうに語っておられたものです。それから10年が経過しての、自分も卒業生となった120周年記念演奏会であったわけです。極めて印象に残る「未完成」でした。

そして、ヘンデルの「ハレルヤ」です。これは、私も現役生時代に演奏した、この学校の年中行事でもある演奏会の定番の出し物でした。本来、フルート等のパートのない作品ですが、このメサイアという作品は、大量の管楽器を補ってにぎにぎしくやる伝統があり、その伝統上にあるメサイアのハレルヤなのでした。誰の編曲かはわかりません。モーツァルトの編曲が有名ですが、どうもモーツァルトにしては2番フルートの書き方が非音楽的です(モーツァルトはこういうとき「音楽的な」書き方をします。ベートーヴェンは平気で「非音楽的な」書き方をします)。練習中のことですが、以下のようなティンパニのパートがあり、若いティンパニの学生がうまく演奏できないので、思わず先生が椅子から立ち上がって、ご指導が熱心になったこともあります。以下は思い出しながら書いた楽譜です。

(混声四部合唱とティンパニのみ書きました。その日はオケだけの練習でしたので、合唱はいませんでしたが、わかりやすさのため、合唱とティンパニで書きました。なお、本番当日は、日記によると合唱は日本語で歌ったとのことですので、歌詞は日本語で書きました。)

そこからはアンコールです。私はフルート1番となりました。(そうそうたる大先輩がたくさん乗っておられるので、私のような若造にはなかなか1番など回って来ません。いま考えるとありがたい話でした。)となりのオーボエ1番も後輩です。「ふるさと」を演奏しました。誰の編曲かは知りませんが、これも年中行事のようによく演奏した作品です。私は絶好調でした。となりで2番を吹いている後輩からも驚かれるほどの好調ぶりでした。そしてもう1曲のアンコール、この学校の応援歌と校歌をミックスして作曲されているマーチです。これは先述のお亡くなりになっている第2代の先生の作品です。私も在学中に何度も演奏しました。これを演奏して、ついにすべての戦後の音楽の先生がそろい、この演奏会(舞台上の同窓会)は終演となったのでした。

打ち上げに行きました。例のホルンの高校の先生が司会でした。たくさんの大先輩、たくさんの知っている同輩や後輩と、楽しい時間を過ごしました。私には目立ったソロはなかったものの、絶好調でした。日記にも書いてありますが、珍しいことにまったくあがらなかったのです。

この日の録音は持っていません。だれか持っていないかなあ。映像もきっとあるはずだけど・・・。

なんとなく「つぎの130周年記念演奏会のころは32歳だなあ。なにをしているのか」と思ったことを思い出します。院試に受かったばかりですしね。まさか、数学者になれておらず、25歳で取り返しのつかないような重い統合失調症をやってフルートまでへたになり、32歳はある地方都市でダメ教員をしているとは!しかし、32歳の夏休み、1回、練習を見に行ったことはよく覚えています。例の第4代の音楽の先生がまだ顧問で、シベリウスのフィンランディアや、グリーグの協奏曲などを練習していました。そのときも後輩などに会ったものです。(楽器を続けているっていいなあ。)そのつぎの42歳はもっとそれどころではなく(事務員の2年目か?ダメ事務員で、休職と配置換えを繰り返しているころ)、いま私は48歳です。残念ながらもうフルートやピッコロを吹く機会はほぼなくなってしまいましたね。

本日は長い記事でしたね。ブログ記事上でやるひとり同窓会でした。その「未完成」を指揮なさった先生はほんとうに偉大であったことと、フルートの先生も偉大でした。

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