「これはフィクションです。」(ジブリ映画「魔女の宅急便」の設定と新約聖書マルコによる福音書について)

最近、ジブリ映画の「魔女の宅急便」を見直して思ったことです。(この映画を見直して思ったことはもっとあり、それはまたの機会に書きます。本日は以下のちょっとしたことの話です。)この話は、いつの時代の、どの国の話であるのか。魔女がいるのはどの国か。顔を見ると、皆さん西洋の人に見えます。しかし、キキさんがホウキに乗って飛んでいるとき、ラジオで聴いている歌は、日本の古い歌です。しかしラジオはあった時代ですね。キキという名前も日本のものとは思われず、そして行くことになる海の近くの町は、瀬戸内海の町ではないようですが、パン屋さんは、グーチョキパン店と言っていますね。そのパン屋さんの名前は日本語か。この、「いつの話か、どこの話か分からないように設定してある」という現象について、思ったことがあるのです。

新約聖書マルコによる福音書に「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と書いてあります。これは「そう通っても決してそこには出ない」という書き方であるとよく解説されます。確かに聖書の巻末の地図を見ても、このように通ることは不可能だと思います。例えばこれは「それからまた、イエスは関東地方を去り、黒磯を経て山陰地方を通り抜け、琵琶湖へやって来られた」と言っているくらいナンセンスなのです。いまのはちょっと誇張ですが、そのような感じにイエスは歩いています。これはしばしば、著者のマルコさんが、この地方の地理をよく知らなかったのだ、と解説されます。しかし、そうだろうか、と思ったのです。これは、著者はあえてめちゃくちゃを書き、「この話はフィクションですよ」というふうに言いたかったところではないでしょうか。

(まあ、魔女がホウキで空を飛んでいるところもまず見た人はいないように、例えば五千人の人が五つのパンで満腹するところとか、目の見えない人が見えるようになったりするのを見たことのある人もまずいないわけです。とはいえ、それがナンセンスということにはならず、「魔女の宅急便」で描かれる人間模様はまことにリアルであり、同様に「マルコによる福音書」で描かれる人間模様もまことにリアルです。それを引き立たせるために、フィクションであると強調するのだろうと感じるわけです。)

その目で見てみますと、マルコによる福音書の、各段落の頭に、そのような地理に関する言葉がたくさんあることに気づかされます。「一行はベトサイダに着いた」「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった」「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」「一行はカファルナウムに来た」「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」・・・最後はエルサレムに行くことだけ決まっていますが、この書き方は、あたかも、毎週毎週、水戸黄門が全国のあちこちに行くかのようです。「一行」というのは、助さんと格さんを含めてでしょう。水戸黄門はよく知らなくてすみませんが、例えば、前の週に仙台に行き、つぎの週に札幌に行き、そのつぎの週に北九州に行くのは不可能でしょう。それでも、皆さん毎週見ておられました。(次週はロンドンに行ってもよいのでしょうが、ただ、ロンドンでは先の副将軍の印籠は通用しないと思われますので、それで国内だけ歩くわけです。)どうもマルコによる福音書もこのようではないかと思わされます。やはり聖書は昔のテレビかインターネットであり、各書物は番組でありました。

考えてみますと、昔話の最初によく「昔々、あるところに」と言いますのも、いつの話か(昔々)、どこの話か(あるところに)、というのを、ぼやかした言い方であると気づかされます。「この物語はフィクションです。実際の人物等とは一切関係がありません」と注記してあるマンガみたいであると感じます。(サザエとカツオとワカメの父の名が波平さんで、その波平さんの勤める会社の名前が海山商事であったりするようなもので、そんなものはないぞと作者は言いたい。)

そのようなわけで、「魔女の宅急便」の時代と国の設定がめちゃくちゃなのは、宮崎駿さんが賢くないことを意味するのではないように、マルコによる福音書のその地理がめちゃくちゃなのも、マルコさんが賢くないことを意味しないことに気づかされた次第です。本日は以上です!

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