「方便」の意味

中学生のころ、家にあった仏教の本に書いてあった話を思い出しました。「方便」(ほうべん)という言葉についてです。いま私は49歳になりますが、どうやら「方便」という言葉の意味がだんだん分かってきたかもしれないのです。以下に少しずつ書いて参りたいと思います。よく耳にする「うそも方便」という言い方には最後に戻って参りたいと思います。まずは「方便」の話をしますね。

その中学生のころに読んだ本によれば、「方便」とは以下のような意味です。みんなで歩いています。向こうに仏様がいて、ここがゴールですよと手招きしています。(いろいろ細かいことは忘れてしまったことをどうぞおゆるしください。)そこまでけっこう遠かったのですが、どうにかそこにたどりつきました。ところがそこはゴールでなかったのです。仏様はいつのまにか、だいぶ先におられ、ここが本当のゴールですよと、手招きしておられます。ここはゴールではなかったのか。それでまたがんばってそこまで歩きました。ところが着いてみると、そこはゴールでなく、再び仏様はだいぶ先で手招きしておられます。まあ、確かに、最初にとほうもない距離を提示されたら歩く気力を失ったけど、仏様が、ちょっとずつ、いわば「うそ」をつきながら、本来のゴールでないところで待っていてくださったので、自分はここまで歩けたのだ・・・。と、中学生の私はこのように「方便」というものを捉えました。ほんとうにその本の著者はそう思って書いたかどうかはさておき、少なくとも当時、私はこのように「方便」を捉えたのでした。

松岡修造さんの言葉も思い出しました。これも記憶に頼るばかりですが、確か十年くらい前に何かで読みました。50回たたくと壊れる壁がある。しかし皆さん、40回たたいて、あきらめて去って行かれるのだ。だいたいこのような言葉であったと思います。おそらく、われわれがテニスを練習していて、なんらかの壁を乗り越えるというときの話でしょう。松岡修造さんのような、その先の見えている指導者からはよく見えるのでしょうね。壁に40回トライするのは大変です。それでも壁が乗り越えられなかったとき、松岡先生にたずねます。先生、あと何回で、この壁は乗り越えられるのですか。先生が答えます。あと10回です。(50回で乗り越えられるはずですから、40回やったら、あと10回で乗り越えられるはずです。)そして、それであと10回やってみて、乗り越えられなかったとします。「先生、あと10回で乗り越えられるのではなかったのですか」。先生は答えます。「プラスあと30回やってみてください。それでその壁は乗り越えることができます」、と。

数年前、私が頼っていた障害者福祉の相談員は、Yさん(仮名)と言い、ちょっと障害者福祉の人に見えない、ビジネスマン的な風貌のおじさんでした。Yさんは、ご自身の経験から、当時、仕事を失いつつあった私に、説明してくださいました。Yさんは、あるとき、仕事を失ったそうです。それでハローワークに頼り、必死で求職活動をし、それでいまの仕事に就職できたのだそうです。そのときハローワークの人に、年齢プラス10社は落ちますよ、と言われたそうです。つまり、たとえばYさんが仕事を失ったのが40歳とするなら、40プラス10で、50社は落とされる、と言われたことになります。これはいま考えると、Yさんも私にアドバイスをくださったわけですが、まずは40歳のYさん自身が、ハローワークの職員さんから「アドバイス」をもらったわけです。おそらくYさんは、50社受ける前に、いま勤める社会福祉法人から内定がもらえたのでしょう。ハローワークの職員さんは、Yさんの年齢、経歴、資格などを見「とりあえず50社、受けてみてください」と言ったのでしょう。それは例の仏様のようでもあり、さっきの松岡修造さんのようでもあります。もしYさんが50社すべてから採用を見送られてしまったら、そしてそのことをハローワークさんに嘆くなら、ハローワークさんは「そうですか。大変ですね。あと20社、がんばってみましょう!」と言ったかもしれません。

イエスは言います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」。探しものをしたとします。だいぶ探したけれど、出て来ません。もちろん、探しものというのは、探して1分くらいで出て来るときもあります。ところが、だいぶ探しても出て来なかったとします。そこでイエスさまに聞きました、「イエスさま、あと何時間、探したら出て来るのですか」。イエスさまは答えました。「まあ、あと3時間、探してみなさい。そうすればきっと出て来るから」。それで、あと3時間、探しました。もちろん、この時点で、1分で見つかることもあります。あるいは「いやあ、探しても探しても出てこないな。ちょっと休憩しよう・・、あれ、こんなところにあった!」というふうに見つかるかもしれません。それで、3時間探しても出て来ない場合もあるわけです。その場合に、イエスさまに再び聞くわけです。「イエスさま、3時間探しても出て来ませんでした。あとどれくらい探したら出て来るのでしょうか」。イエスさまは答えます、「そうだな、あと2時間、探してごらん。そうしたらきっと出て来るよ」。これが、最初に言いました「方便」のほんとうの意味なのでしょうし、聖書でイエスの言う「求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる」という言葉のほんとうの意味なのでしょう。

このように発想したのにはきっかけがあります。最近、この星くず算数・数学教室のチラシを作り、近所に配り始まったのです。とりあえず、印刷屋さんに千枚、作っていただきましたが、まだぜんぜん配り終わりません。自分では「まあ、千枚配って、1件、お問い合わせがあるかどうかかな」と思っていました。そうかもしれません。あるいは、何千枚配っても、お問い合わせはないかもしれず、逆に、1枚だけ配ってもお問い合わせが来る可能性はあるわけです。そして常に、工夫をし続けるわけです。このようななかから思った次第であるわけです。

最初に紹介した仏教の本の話は、あえて私の誤解(と思われます)のままに書きました。おそらく、皆さん「歩いている」と言っても具体的には「悟りを開きたかった」のでしょう。修行をしておられるのかもしれません。もちろん「悟りを開きたい」と言ってもそれは「幸せに生きられるようになりたい」ということかもしれません。それで仏様がはるか遠くに立ち、ここまで来るあいだに、どこかで「気づく」(「悟る」)だろうと思っているのです。これも、探しものと同じで、すぐに悟る人もいるのだと思います。しかし、そこまで歩いても気づかない(悟らない)人はいますので、それで仏様は先に進んで、ここまで来てごらん、ここがゴールですよとおっしゃるわけです。もしかしたら、この道のどこかでゴールがあるという思い込みからの脱出が悟りなのかもしれませんね。

それで最後に「うそも方便」という言い方に少し触れます。「きみのためにあえてうそをついたのだよ」という文脈で言われることの多い言葉である気もしますが、松岡修造先生もうそをついたのではなく、辛抱強くテニスのご指導をしておられるのだと思います。

旧約聖書の「ヨブ記」は、ひたすらヨブの苦悩が描かれています。どうしようもない出口のなさのなか、最後に神様が出て来てヨブ記は終わります。私は自分の日記を読み返し、ひたすら「終わりのないヨブ記」だと感じて来ました。いくら読み返しても救いがないのです。それが、私もこの3年くらいで人生が動き、確かに見えないものが見えて参りました。どうぞ皆さん、ご一緒にがんばりましょう!

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