語学とは理性の学問である

私は最初の語学である英語を、中学生のときに公立の中学で学び始め、高校では県で一番と言われる進学校で引き続き英語を学びましたが、根本的に自分は英語(語学)ができないという感覚を持っていました。それが最近、言語化されたというお話を以下に書きます。

18歳で大学に受かったとき、ちらっと思ったことがあります。「自分の英語はしょせん受験英語だったかもな」。いま考えると、私は受験勉強は嫌いだったのです。数学や物理については、高校までに、感動的な授業がいくつもありました。そして私は高校3年の9月の文化祭でオーケストラ部の発表をし、それから約半年、楽器を封印して、受験勉強すなわち問題を解く訓練に時間を費やしました。それで東大に受かったわけですが、それはあくまで受験テクニックの駆使であり、語学に関してはきちんと習得した気持ちになれなかったのでした。

大学では、第二外国語はドイツ語でした。いま考えると、日本語でもなく英語でもない文化に触れた貴重な機会でした。しかし、身につくには程遠いものでした。英語については、駒場の教材は非常に難しかったです。おそらくは、東大に受かって生意気の絶頂にある駒場生の鼻をへし折るべく難しい教材であったと言えると思います。教養学部についてはこのような状況でした。

専門の学部生(理学部数学科)になりますと、ときどき英語で書かれたテキストがありました。数学の国際語は英語です。フランス語やドイツ語の論文や本もたまにありましたが、圧倒的多数の文献は英語です。学部3年で J. Milnor のTopology from the differential viewpointを読み、学部4年で、W. Thurston の 3-dimentional geometry and topology を読んだわけです。これが、大学院生(東大数理)となりますと、もっぱらあらゆることが英語になりました。読む論文も、しばしば講義も英語であり(ロシア人のセルゲイ・ドゥージン先生の英語の講義を聴きました。ほか)、セミナーでも外国人の先輩そして後輩がいましたので、板書は英語ですることになっていましたし、そして修士課程2年のときに提出した修士論文は英語で書きました。

数学における英語そのものは難しくないことがほとんどです。「ナントカ is カントカ」という程度の、単純な英語でした。論文でも、英語を母国語としない先生の書かれたもののほうが読みやすいわけです。講義でもそうです。(先述のドゥージン先生は最初の回の最後で、日本語で「どうですか、私の英語は」と言われ、ドゥージン氏を東大に招いたと思われる東大数理の先生が「英語が母国語の先生より分かりやすかったです」と言うという場面がありました。)

自分の極端な語学音痴ぶりを痛感するような典型的な機会を書きます。宿泊を伴うような研究集会で、皆さん、日常的な英会話で意思の疎通をしておられるのです。以下にある朝の何気ない会話の例を挙げます。西洋人と思われる先生が、朝に納豆が出て、目を白黒させておられます。近くの若い先生に「この黄色いのは入れるの?」と英語で聞かれました。聞かれた日本の若い先生は「入れてもいいですけど、ちょっと辛いですよ」と言いました。「Some, hot!」と言いながら、顔と手で「辛いよ!」というジェスチャーをされました。外国の先生が「Mustard?(マスタード?)」と聞かれ、日本の先生は「Yes,mustard!」と答えていました。こういうやり取りも、いま覚えていて、しかもたったいまもこれを英語でこの場につづることができず、この小文を書くにあたり四半世紀ぶりに辞書を引いてマスタードのつづりを調べました。このような場で、私は自分の語学が、壊滅的にできないことを感じるのでした。

論文を執筆するとき、英語で分からない点が2つありました。「定冠詞と不定冠詞の使い分け」と「単数形と複数形の使い分け」です。いま考えると、いずれも日本語にないものでした。もうひとつ、発音上で、”l”と”r”の使い分けも分かりませんでしたが、これも日本語にないものです。つまり私はあくまで日本語で発想しているのでした。

それから二十数年が経過した、つい最近の気づきがあります。「新約聖書学」というような学問は、語学であると理解したのです。新約聖書はギリシア語で書かれていると聞きます。(旧約聖書はヘブライ語で書かれているそうですが、本日は新約聖書学に限って議論することにします。)その新約聖書のギリシア語は、古典ギリシア語です(ギリシア語の古語です)。つまり、現役で古典ギリシア語を使う人はいないわけです。その古典ギリシア語で書かれた新約聖書を読み「これは著者はなにを言いたいのであろうか」と考えることが語学であり、新約聖書学であるということです。「答え合わせ」はできないわけです。二千年前にタイムスリップはできないからです。むしろ、二千年前にタイムスリップして当時のことを知りたい願望の表れが、新約聖書の読解という行為の動機としてあるわけです。つまり、「人の気持ちがわかること」が、語学の本質でした。

人間が生まれながらに備えている知恵を、「理性」というと思います。理性には共感性がセットされています。なぜかというと、人間はひとりでは生きていけず、助け合いながら生きなくてはならないからです。それで、理性のすぐれたお子さんを想像してみてください。私は星くず算数・数学教室のある生徒さんを想像します。必ずしも学校の成績はいいとは言えないけれども、非常に共感性のあるお子さんです。その子はおそらく、たとえ言葉の通じないバングラデシュに行ったとしても、万国共通に通じる「親切にされたら笑顔になる」というようなことからだんだんお友達ができて、そのうちベンガル語がすらすらできるようになる気がするのです。これが「語学とは理性の学問である」という意味です。私に長いこと共感性はありませんでした。この子のような人が「語学のできる人」です。確かに、文法と単語だけ覚えて、パズルのように問題を解いて東大に受かった私は、それで語学ができるとは到底言えないのであり、18歳のときの直感は当たっていたわけです。

大学院のときの研究集会での朝の日常会話を思い出してみます。「外国の先生は納豆を食べたことがないのだろうなあ。その黄色いのは入れてもいいですけど辛いですよ。そうだ!それは英語でマスタードというのであった!そうです、マスタードです!」というのは、共感性であり、思いやりではありませんか。自分も外国で見たことのない食べ物が朝食に出てきたら怪しむであろう、と想像できるのが共感性であるわけです。

私が幼少のころ、テレビで見る外国人(多くはアメリカ人でありましたでしょう)は、しばしばきつい外国なまりをしていました。一方で、外国人力士の皆さん(高見山に代表されます)は、流暢な日本語を話しておられました。最近まで私が滞在していたホテルの外国人の清掃員の方も流暢な日本語で、付近のコンビニの外国人の店員さんも流暢な日本語でした。これは、頭で覚えた日本語か、体で(「理性で」)覚えた日本語か、の違いであろうと思います。そもそも「流暢」という概念が、「いい点を取って先生にほめられるため」ではなく「スムーズに通じるため」の概念であると気づかされるわけです。学問というものは全般に「いい成績を修めてほめられるため」のものではなく「生きるために必要な知恵」であるべきものです。高評価を得るためだけに書かれた論文や本のいかにむなしいことかと改めて思わされます。

このように、人間には生まれながら備えられている理性というものがあり、その指し示す方向に向かって、共感性と思いやりで生きていくべきであり、学問とはその助けであるべきものです。残りの人生を、理性と共感性で生きて参りたいと願います。

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