AIから出ない人間の賢さとは「なさけ」

ここ2年くらい、この星くず算数・数学教室の講師をしていて、機械学習を専門とされているかた、または機械学習を専門に勉強されたかた、などのお話をうかがうことが多数、ありました。私がインターネット検索から理解したことを、そういうかたに確認して、おおむねその理解で間違っていないと言われた、私の機械学習というものの理解から、書き始めますね。

自動車には100以上のコンピュータが搭載されていると聞いたことがあります。たとえば、ブレーキを踏むと止まる、というのもコンピュータによって制御されているでしょう。これは、人間がプログラミングして、ブレーキを踏んだら止まるようにしてあるのだと考えられます。これに対して機械学習とは、機械が自分で自分を「賢く」するのです。こうしたらこういう失敗をするのだな。ひとつ学んだぞ。こうして、機械が自分で、自分を賢くするというふうにしてあるのが「機械学習」であり、AIを支えている仕組みであると。ご専門の複数のかたにうかがっても、この私の理解で大筋は間違っていないようです。

こうしてみますと、AIというのは、何億通りかの、パターンを覚えて、自分の「手数」にしていると考えられます。以下に、本日のこのブログで、私は、AIで出ない人間の賢さについて述べたいと思います。

以前、「夏休みが倍になったら嬉しさが倍」という記事を書きました。(最後にリンクをおはりいたしますね。)ある生徒さんの「名言」です。人生を楽しんでおられるかたのお言葉です。ある別の友人と分かち合いをしたとき、その友人は言いました。夏休みというのは、日数であれば数値化できる。しかし、嬉しさというのは数値化できない。にもかかわらず、「どちらのほうが嬉しい」ということは言えると。私は思いました。数で表されないものを比較するのは賢さであると。それも、人間の賢さだと直観しました。以下に、これが単なる直観に留まらないことをだんだん述べたいと思います。

「数で表されないものを数で表すのは『遊び』」というブログ記事も書いたことがあります。それも最後にリンクをおはりしますね。このたびは、数で表されないものを比較するのは「賢さ」という話であるわけです。

だれかにプレゼントを贈る場合を考えてみます。なにを贈ったら喜ばれるだろうか。真剣に考え、悩みます。これは、人間の真の賢さが要求される場面です。あっと驚くようなものを贈って、喜ばれることもあります。(これをよく「サプライズ」と言っています。)あるいは、つぎの休みに、みんなでどこへ行ったら楽しいであろうか。こういったものは、人間の真の賢さが要求される場面であるとも言えると思います。

ここに千円があるとします。これを何に使うか。こういうのも人間の真の賢さが要求される問いであると言えると思います。宝くじで3億円が当たったら何に使うか。即答できる人はきっと賢い人でしょうね。「千」や「3億」は「数」ですけど、それを何に使うか、は数では表せません。(私はずっと「どろぶね」に乗っている「賢くない」人間であり、学生時代、寮を追い出されて以来、山手線の内側の、早稲田大学の近くに下宿して、早稲田の学食で食事をしていました。1円単位で日記に使ったお金が記してありますが、そもそも東大数理がある駒場の近辺で、安い下宿に住んだらよかったのです。当時の奨学金が月に11万9千円、その早稲田の近くの下宿の家賃が月に7万3千円。明らかに賢くないのでした。48歳のいま、ようやくこういう賢さを考えるようになりました。自営業の初歩に立つようになったのです。)

親子の関係を考えます。親は通常、2人いるかもしれませんが、話を単純化して、たとえば母親とすれば、それが自分なら、世界にひとりだけの母親です。そして、子供は、複数いるかもしれませんが、そのうちのひとりに着目すれば、ひとりです。そして、一生は1回です。人生は1回だから一生と言うのです。晴佐久昌英神父の詩の言葉を借りれば「世界に一人で歴史に一度」です。歴史に一度だけの子育てです。先ほどのAIは、何億通りものパターンを把握していました。しかし、人間は世界に一人で歴史に一度であり、同じパターンはいません。その子供を、いかに才能を伸ばして、いかに弱みはカバーして、いかに賢く生きるように育てるか、というのは、「親のなさけ(親の愛情)」というものでしょう。人間にしか出ない賢さとは「なさけ」なのです。

AIに「なさけ」はないでしょう。私の知るAIは、パソコンで「なんでも聞いてください」と言って来て、ではと思って聞いてみると、インターネット検索ですぐわかるくらいのことしか答えない。それどころか、私が自分の過去のブログを探したくて検索しているとき、私がブログに書いた個人的な意見を、あたかも定説であるかのように引用して説明を始めたときがありました。そして、私が住んでいる土地は知っていていろいろなものを表示させるし、それでいていまのAIって公務員試験に受かったりするらしいし。こういうやつが人間として現実にいたら、相当に嫌なやつではないでしょうか(笑)。これがAIの正体です。AIには「なさけ」がないのです。

「あの人に贈り物をしよう。なにが喜ばれるかな」と考えるのは「なさけ」です。こういうときの「名案」は、人間しか思いつきません。何億通りの場合を覚えているだけでは思いつかないのです。(パターンで贈り物をするときって、その人の年収とか趣味とか年齢とかからこういうものを贈るべきではないかと考えることでしょうかね。確かにそれではまごころのこもった贈り物はできないでしょうね。)

数学もそうです。数学とは典型的に人間的な営みであり、AIではできない典型的なものです。これはまた日を改めて書いたほうがいい気もしてきました。これだけでひとつの話題です。数学とは、文学のようなものであり、論文の執筆は、文学作品の執筆あるいは音楽でいえば作曲に相当するようなものでした。とにかく数学とはAIでできない典型的なものです。

(残念ながら世の中で数学と認識されていることの多くは、AI的であると私には感じられます。パズルのような、クイズのような。ルービックキューブのような、詰め将棋のような。しかし、それらは典型的にAIの強い分野です。AIが人間の将棋の名人を倒すニュースを聞いたのもひと昔は前であると思います。そういう賢さならばAIに任せておけばよいのです。本当の数学はそうではありません。人間の真の賢さが問われるクリエイティヴな学問が数学です。)

というわけで、AIから出ない人間の賢さとは「なさけ」であります。これは人間の真の賢さだと思います。私のある友人は、休みの日は推し活をしたり、好きなスポーツをしたり、気が向いたら教会の礼拝に行ったりして、気ままな楽しい人生を送っています。お話もいつも他愛もないとても楽しいお話ばかりです。こういう人は、人生の優先順位を見誤らない、賢い人であると言えましょう。こういう賢さが、AIでは出ないのです。先ほどはテレビで出川哲郎さんを見ました。私の若いころからテレビに出られている、息の長いタレントさんです。とても賢く「大船」自営業をしておられると思います。出川さんは「お育ちがいい」のでしょうね。マンガの主人公の多くは、大らかであることに気づかされています。ちびまるこちゃんは大らか。クレヨンしんちゃんも大らか。(しんちゃんのお父さんもお母さんも大らか。)こち亀の両さん大らか。のだめカンタービレののだめも大らか。のだめは汚い部屋に住んでいますが、おそらくのびのびと育てられたのでしょう、両親も大らかであった様子がうかがえます。私はたくさんの数学の才能、音楽の才能に恵まれた代わりに育ちが「どろぶね」で、だいぶ人生を無駄にして来ましたが、長いこと向いていない仕事をした挙句、2年前(2022年)の2月に仕事を失い、いろいろな人生経験をし、経済的な苦境も味わい、また自営業となって仕事やお金について考えをめぐらし、人間のほんとうの賢さに関心が向いています。これこそがAIで出ない人間の賢さではないでしょうか。

以下に、本文中に出る2つのブログ記事のリンクをはりますね。

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