「嫌いな」賛美歌のお話

クリスマスが近づいて参りました。賛美歌のお話をいたしましょう。
私はクリスチャンです(キリスト教徒です)。もう20年以上前の20代であったころの話になりますが、友人宅での家庭集会で、「好きな賛美歌大会」に引き続いて「嫌いな賛美歌大会」が行われたことがあるのです。けっこう皆さん「嫌いな賛美歌」「嫌いな聖書の言葉」というものはあるものです。本日は、へそ曲がりのようですが、私の嫌いな賛美歌をいくつか挙げましょう。
「主よ、み手もて」という賛美歌があります。教会ではとても有名な歌です(教派にもよるかもしれませんが)。クラシック音楽がお好きなかたには、ウェーバーの「魔弾の射手」序曲に出て来るメロディとしておなじみかもしれません。この1番の後半に、つぎのように書いてあるのです。「いかに暗く けわしくとも、みむねならば われいとわじ」。これはあまり大きな声で歌えませんねえ。ものすごく暗くてけわしかったら、みむねであってもいとうかもしれないからです。これはただ私の信仰心が足りないせいだと言えるかもしれません。
ただし、このようなことを言う人に限って、いざというとき、3回イエスを知らないと言って逃げるというのが、聖書の描く人間の偽らざる姿であるという気もします。(ペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。ペトロはそののち3回イエスを知らないと言って逃げるのです。)
嫌いな賛美歌の話に戻りますね。「やすかれ、わがこころよ」という賛美歌があります。これも有名ですね。これがまたクラシック音楽の好きなかたには、シベリウスの「フィンランディア」でおなじみのメロディかもしれません。この1番の後半が次のようになっています。「主イエスのともにませば、たええぬ悩みはなし」。いや、主イエスがともにましても、たえられない悩みはあるかもしれない、と思ったらもうこの賛美歌を大きな声では歌えません。「恐るべきものは この世になし」などという賛美歌もあるのですが、いやこの世は恐ろしいものばかりでしょうという気がいたします。こういう「勇ましい」感じの賛美歌はときどきあるわけです。
「気づかせてください 知らずに犯した罪を」という賛美歌もありますが、これもあまり好きではないですね。人間は知らずに犯した罪を気がつかないだけの鈍さがあるから生きていけるのだという気がします。知らずに犯した罪をすべて知らされたら、生きていけない気がしますね。いかがでしょうか。
「となりびとは だれでしょう、みんなともに探そうよ。弱く貧しい お友だち、病んで苦しむ ひとたちも、みんな同じ となりびと」という賛美歌もあります。ときどきキリスト教の世界で感じることではありますが、この歌詞ですと、自分は弱く貧しいことがない前提になっているわけです。病んで苦しむのも誰か他の人であるわけです。こういう歌はすごく気になります。「強者の歌」というべき感じですね。
最後に、好きな賛美歌を挙げて終わります。「わがなみだ」と言います。古い讃美歌集にしか載っていない賛美歌です。3節に以下のようにあります。「みめぐみと 知りてはあれど、このなやみ 今は耐ええず」。これは正直ですね!みめぐみだと知っていても、この悩みは、今は耐えられないのです。私もこの歌は「賛美歌通読」で知った賛美歌であり、有名な歌とは言えないと思います。作曲は「椰子の実」と同じ大中寅二で、メロディは「椰子の実」に似ており、歌詞ともども、どことなく頼りない感じの賛美歌です。いいですねえ。